私たちは子供を叱ったり諭したりするときによく、「お前のことを考えて」、とくに「お前の将来のことを考えて」と言う。
考えてみればしつけのほとんどが、子供の将来のことを考えて行うものだ。
トイレのしつけから始まって、食事の仕方、服の着方、礼儀作法や口のきき方、数え上げればきりがない。
では、子ども達を待ち受けている「将来」とはどういう「将来」かというと、今大人たちが生きている世間とほとんど変わらない将来なのではないだろうか。
環境の激変に対応した生活の仕方を、私たちは教えることがあるかもしれないが、それを「しつけ」とは呼ばない。
今大人たちが生きている世間とほとんど変わらない将来が子ども達を待ち受けているということは、言い換えれば、今大人たちが生きている世間に将来子ども達が参加してくるということである。
つまりしつけとは、今大人たちが生きている世間の「集団儀礼」を教えることなのである。
大人たちが子ども達に教えることというのは、じつはほとんどすべてが、そうした「集団儀礼」なのではないか。
しじゅう裸で駆け回り、所かまわず糞尿をまき散らされては、私たちが困るのである。
本来は我々大人が困るのを、「将来お前が困らないように」と言ってしつけるのである。
「教育」、とくに初等教育、中等教育も本質は同じであろう。
こんな公式習って何の役に立つのか、文法を知らなくても読み書きはできる、といった生徒の悪態に対して、大人は言い訳以外の真実有効な答えは持っていない。
ここでも、将来困るのは大人の側なのである。
公式や文法はともかく、きちんとした読み書きや、簡単な計算能力、ものの判別力がない者が、「私たち」の集団に多く参加してくると、もはやその集団を維持することも困難になってしまうだろう。という予測を私たちは立てているのである。
私たちが子ども達をしつけたり教えたりするのは、私たち大人の集団のあるべき姿を、彼らに求めているのである。
つまり、子供に何を求めるかということは、私たちが私たちに何を求めているかということと同一なのである。
その一方で、「私たちの集団」に将来も新しいメンバーが付け加わることも、私たちは望んでいる(はずだ)。
メンバーが高齢化して新たな若者も期待できない、過疎地の青年団(といっては失礼か)のような集団を、正常な集団社会とはいわないだろう。
そうしたときに、いったいどういう集団が集団としてよりよい集団なのか。
集団のよさとは、集団の統一性と継続性とを同時に満たすところに求められる。
統一性を求める余り、集団の構成員が閉鎖的になり、将来的に目減りしてはよい集団とは言えないだろう。
逆に集団の構成要素があまりにゆるすぎると、それは集団とは言えない。
そのバランスをどこに求めるのがいいのか。
少しばかりゆるい方がいいのではと、私は思う。
集団の構成要素が徐々に変更されていくくらいのゆるさが。
集団の構成員が目減りすることなく、できれば少しずつでも増加するくらいのゆるさが。
それがよりよい集団と言えないか。
少年法改正議論に見える厳罰化は、そうした集団のよりよいあり方への方向性に逆行している心性があるようにも思えるのである。
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