「しつけ」というとかなり強制が強いニュアンスがあるが、「教える」と言ったらどうなるか。
白川静は「字統」で次のように述べている。
「教」
メ父(こう)は屋上に千木のある建物の象形。古代のメンズハウスとして、神聖な形式を持つ建物で、ここに一定年齢の子弟を集めて、秘密結社的な生活と教育とを行った。指導者は氏族の長老たちで、氏族の伝統や生活の規範を教える。ト又(ぼく)は長老たちの権威を示す。
「長老」というから老人のイメージだが、「年上の主立った者」と解釈すればよい。
ネットで少年法の限度/抜け穴を教えるから悪いという議論もあるが、「掟」のある社会ではそうしたものである。
年長者が「掟」の抜け穴を教え、ちょっとばかりの悪(わる)を教え、しかしその結末も教える。
抜け穴のない掟は、その掟を持つ集団を、結果的に滅ぼしてしまう。
その掟に従わないものは、その集団の一員ではないというのが、掟のそもそものもつ不可避的要素だからである。
後期小泉自民党総裁のなしたことをみればそれはじゅうぶんにわかるだろう。
抜け道の持つ本来の効用を知っている者を、「おとな」と呼んだのである。
ネット社会では、実はそうした「抜け道を教える年長者」が存在していないのである。
ネット社会に存在しているのは、「ネット社会でのガキ」ばかりである。
だからこそ「ネチケット」の必要性が唱えられたりしているのであるが、そうした未成熟な「ムラ社会」がいっきょに何万人単位で、歴史的なスケールで見れば「瞬時」にして成立したのである。
「長老」の不在。
むしろ現社会での「長老」の否定が、そこではなされてきたのである。
「子供」を集団の新たな構成員と見なすことが、されていないのである。
たかだか十数年でなされるはずもない。
言ってみればネット社会の「年上の主立った者」ですら、十数歳の年齢なのである。
「ガキ」が「ガキ」の面倒なんて見られるはずはない。
それが実社会とクロスしたときに、私たちはパソコンの画面をとおして、混乱しているのである。
そして、後期小泉自民党総裁のなしたことが、何の違和感もなく理解されたのである。
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