先日の日記にコメントが寄せられたので、「少年法改正」問題について自分なりの考えを表明せねばならないだろう。
犯罪=共同体に対する何らかのマイナス要因=罪を犯した者が、自らそれを償う必要性については私は何らの異議はない。
しかし、この問題を考える上で、自分の考え/感想を不透明にしてしまっているいくつかの問題がある。
それを自ら明らかにすることから、論考を進めたい。
「
少年法」に定められるところによれば、少年とは「20歳に満たない者をいい、『成人』とは、満20歳以上の者」である。(少年法第2条)
さらに少年法内でも、
年齢に応じてその取り扱いに差が設けられている。
では、その年齢の基準が何によって設けられたのか、もはや私たちには明らかでないのである。
つまり「成人/少年」の区別、有り体に言えば「大人」であることの証が、はたして年齢でなされるのか。
大学まで親元で過ごし、毎月小遣いをもらい、三度の食事も作ってもらっていた私と、中卒で中華料理店に就職したサド君と、小学校の同級生とは言え、どちらが「大人」であったのか。
「大人/子供」の区別は、「儀礼」の問題であるのは、明らかであろう。
とすれば、相応の犯罪を犯した者は、その犯罪の度合いに応じて「大人」であると認定されるということなのか。
ここには、「大人」であることの根拠が年齢によってしか与えられていないことのジレンマがあるのではないか。
たとえば「ニート」の問題。
自ら稼ぐことなく家庭も作らず寄食し社会的責務を果たさない存在が、年齢によって「大人」として扱われること等と裏表の関係がある。
たしか内田樹も言及していたように覚えているが、酒・煙草といった大人の儀礼に関わっていたものが、身体的影響という観点でのみ語られるにいたると、大人/子供の差違はなくなってくる。
子供の体に悪いものは、大なり小なり大人の体にも悪いのである。
悪いものは排除されてしかるべきである。
という論法が違和感なく成立する。
以前『下流志向』の項で論考したように、消費社会の進行によって大人と子供の差別がなくなったことが一因であるのかもしれない。
大人が「大人」である根拠を失って焦っていると言えるのかもしれない。
たしかに「大人」がするような犯罪/「大人」でもしないような犯罪を「子供」が犯したとすれば、それは「大人」の犯罪だというしかない。
犯罪によって「大人」であることが承認されるのである。
だとすれば、年齢ではなく、「犯罪という儀礼」によって「大人」として処罰されなければならないということになる。
では私たちは、いったい何によって「大人」であると自ら承認し、他人から承認されているのであろうか。
まさか「少年法」第2条の規定によってではないだろう。
しかしその根拠があいまいになっている/見つけられないのが、今ではないだろうか。
江戸時代であれば、十歳に満たずに元服式を行い家督を継ぐ者がいる一方で、三十を過ぎても前髪も剃らず(剃れず)に部屋住みの悲哀を託つ者もいたのに。
やはり今は、「犯罪という儀礼」によって「大人」であることが承認される時代なのだろうか。
そしてそのことは、「大人」であることが承認されることによって社会から排除されることにほかならず、それはとりもなおさず「大人」の存在を社会が認めないということになるのか・・・・・。
そうでないとすれば、いったい「大人」とは何なのか。
この項、気が重いが、つづけるつもり。
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