NHK教育テレビ『地球ドラマチック』2007年10月24日(水)放映『
発見!シベリアのミイラ』を見た。
ヤクート族の古い墓を、フランス人研究家が発掘するという番組だったが、
あれは、「墓を暴く」といった印象で私は見始めていた。
300年前の墓だというが、地元のヤクート人たちも墓を暴くことに恐怖を覚えていた。
その感情が自然に理解できる私というのは、やはりモンゴロイドの一族であった。
墓には死者がおり、死者は私たち生者とは違うあり方で存在している。
死体であっても、それは何らかの霊的存在であり、霊的存在であることによって、生者と変わることのない存在である。
さらに死体がなくとも、死者は霊的存在であるいじょう、そこに「存在している」。
日本人の多くが、その信仰の体系が(無信仰も含めて)異なっていても、そのことを「信じている」。
信じるとは、信仰とも、知識とも、認識ともちがう。それらを薄く、しかし確固と覆って破ることのできない、感覚的、感情的、そして肉体的な体系である。
それは文字どおり「開かれていない」という意味で、「未開」な体系である。
しかし、「開かれていない」ことが、単純で、蒙昧で、愚かであることを意味しはしない。
むしろ複雑で、示唆に富んでいさえする。
それは単純な「公式」へと抽象されていないだけで、「公式」が全ての個別にあてはまり(つまり開かれて)、「公式」を識ることで全てが解き明かされるという理解のもとでは取りこぼされる多くのものに、直な目を向けるという姿勢をともなわせる。
この世界は単純な「公式」によって開かれているのではなく、個別性の複雑な絡み合いによって閉ざされているのである。
そしてその個別性の複雑な絡み合いのすべて(実際には不可能だが)をたどることで、私たちは世界に開かれ、世界は私たちに開かれているのである。
私たちは絡み合う個別であり、個々が絡み合っていることを知っている。
そうした絡み合いの結節点を見ることのできる者が、シャーマンと呼ばれる者たちである。
番組に登場した300年前のミイラは、白人との接触によって結核に冒されて死んだシャーマンの女性であることが、明らかにされた。
300年前の死者が、その死によって、いまだにヤクートの人々に恐怖を与えていたのである。
その恐怖を、無知であると言うことはできる。
無知ゆえの恐怖を、私たちは嗤い、憐れみ、導くことはできる。
しかしそれは「盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」(マタイによる福音書15章14節)
私たちは、「公式」によって取りこぼされてしまうものがあることを知らない世界に生きているのだから。
番組を見ながら、平たい太鼓を鳴らしながら低く歌い、全てのものの結節点をたどり続けるシャーマンの姿が、私の頭の中にあった。
思えば私の詩も、文学ではなく、自己表明でもなく、言葉がたどるものをたどろうとしているということにおいて、またシャーマン的なものであった。
そう思った次の日、私はまた新しい詩の着想を得た。
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