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web florva不定期日記

見えないものは見えない。見えているものも見えない。

2020年2月27日

あまり具体的で生々しいことを書きたくはないのだが。
ふたつ。

安倍総理大臣が、コロナウィルス関連に関しては対応がゆるい。
検事総長定年延長に関しては、独裁的だ。
という見方がある。
つまり、どちらにしても、今の安倍政権はだめだという論に行き着く。

被爆者が原爆被害の実相を伝え、核兵器廃絶を訴える。
健康被害を訴え、訴訟を起こす。
それが放射能は恐ろしい、という認識に行き着く。
もうすでに原発事故などで、放射能は身近にあり、それを避けたいと誰でも思う。
被爆者が訴えることが、放射能の恐怖につながっている。

私はここで、単純で、表面的な考察しかしていない。
考察ですらない。
たぶん今、世間はこのように動いている。
そういう気がしてならない。

コロナウィルスの実相を、誰も知らない。
政府もマスコミも、危険、恐い、だからこう対処しなさいとしか伝えてこない。

私たちがほんとうに知りたいことは、何なのか。
私たちが、ほんとうに遠ざけられている事柄は、何なのか。
私たちは、ほんとうは何も知りたくなく、ひとのせいにできることを探している。
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『安藤忠雄の都市彷徨』プロセスの建築

そこにあるのは、ロディアという一人の男の作ることへの執念だけだ。それは誰にも理解されることのない、言い換えれば、一人一人の魂の奥底に潜む「個人の叫び」と言ってもいいだろう。
 この個人の叫びをひたすら押し殺してきたのが近代である。近代は個人の個性を分散し、切り捨て、全体的な方向に向けることで成立してきた。
安藤忠雄『安藤忠雄の都市彷徨』プロセスの建築

王→神→人
という具合に「近代」は誕生した。
王権→神権→、ともってくると次には当然「人権」が来る。
神を否定し、個人主義を賞揚することが、近代の特徴であると説くのが多くの立場のようだ。
安藤忠雄の言説はそれとは異なり、個人を押し殺してきたのが近代だというように読める。

近代=個人主義と考えるときの行き場のない感じを、安藤忠雄の言葉は解いてくれるように思う。

抽象化と民主化

たとえば砂漠の水のない状態で、一人はオレンジジュースが飲みたいと言い、一人は紅茶が飲みたいと言い、もう一人はスポーツ飲料がいいと言う。
このときに、ではとりあえず飲める水を捜しましょうというのが、抽象化。 
ネットの世界になって、世界はもう一度具象の世界をくぐり抜けなければならない。
ネットによる民主化なんて言うのは、ネットを牛耳っている世界の言い分に過ぎない。
世界の電源、コンセント、を握っているのは俺だ、っていうこと。
コンセントを壊そうというのが出てきてもおかしくはない。
それも含めての、抽象化だろう。
そもそも民主化というのも、抽象化の極致の一つだし。

普天間・辺野古

あまり広がりもなく、深考もせずに書くので、どうかと思うが。

普天間から辺野古へアメリカ軍基地を移動するのは、いっぱいいっぱいの棚の上の塩壺を右端から左端へ動かすに過ぎない。という個人的感想がある。
いや、右端だったらコンロの上に落ちたら危ないが、左端だったらゴミ箱に落ちるだけだからまだしも安全だ。という議論もある。

もしこれが、自衛隊基地だったらどうなのか。
戦後沖縄はアメリカ軍の統治下に置かれ、「本土復帰」しても状況は変わらなかったと言っていいと思う。

現在の安倍政権は何を目論んでいるのか。
集団的自衛権といい、基地問題といい、これらの事象が日本の全き独立にどれほど関与しているのか、いまだはっきりしてこない。
安倍政権は、あるいは安倍晋三自身は、日本の完全独立を目論んでいるのか。
右端の塩壺を左端へ動かすことにある意味が、見えてこない。
問題は、棚がいっぱいいっぱいであることではないのか。

沖縄の反対論は、日本の独立が見えてこない、アメリカ軍統治が戦後70年経っても続いていることへの潜在的感情に基づいているのではないか。
「本土」にいる私には、基地移転反対の声しか伝わってこないが、某国陰謀論はともかく、沖縄は日本であり、日本であれば日本が守るのが筋ということだろう。
「本土」にいれば、アメリカ軍統治の実感は遠くなってしまっているが、実際の制空権、訓練空域等、実際にはアメリカ軍統治は続いているとしてよいと思える。
沖縄はそのアメリカ軍統治の密度が高いだけに、敏感に感じざるを得ないのではないか。
軍事的戦略的地理条件もあるが、日本全土のアメリカ軍統治の密度を均一にしたとき、サンフランシスコ条約で日本が再独立したという嘘がさらけ出されるのを、政権は恐れているのではないか。

アメリカは太平洋戦争終結後から、日本を文化的にもアメリカの属州に化そうとしてきたが、どうもそれはうまくいっていない。
確かに演歌はニューミュージックに駆逐され、大相撲は芸能からスポーツへと位置づけが変わったかのように見えるが、日本人・日本の文化によって育った人々のメンタリティは、実はほとんど変わっていないと思える。

ここから、大衆歌のニューミュージック以前・以後の対比から、そのことについて論考する。
さらに、安保反対運動の奇妙なねじれに対する個人的感想も述べてみる。

犯罪と人権

犯罪者に「人権」があるのか。
という議論は、充分に成り立つのが、今の日本の状況なのかもしれない。

この議論を十全に成り立たせるためには、「犯罪」とは何か、
誰が、どういう基準で、「犯罪」を「規定する」のかという、「前提」が必要であろう。

しかしながら、「犯罪者にも人権がある」ということは、
逆照射すれば、「犯罪」の規定にも過ちがあり得るということであろう。

今の日本の状況の中で、犯罪者に「人権」があるのかという議論が成立するならば、
「犯罪の規定」がいつでもどこでも不変であり、言ってみれば「犯罪は犯罪だ」という暗黙裏の了解があるからなのかもしれない。

法治国家において、法律にそぐわないことが犯罪であり、
憲法の規定で法律は改変できることが保証されているならば、
犯罪は犯罪ではない可能性を含んでいるはずである。

それでもそれを「犯罪」として糾弾するならば、その糾弾は、近代法制度以前のものであるか、
あるいは近代を超克したものかのどちらかであるはずだが、
後者である可能性は、ほとんどまったくあり得ない。

「犯罪」を犯したのだから、「何をされても(しても)かまわない」というのは、
近代以前の、因習的な感情論に過ぎないであろう。

「因習的」ということについても、また議論を重ねてみたい。

神話

侵略は、神話の収奪をもって完了する。

アメリカ合衆国における白頭鷲。
古事記における様々の神。

フラクタル

世界はフラクタルな構造をもつと仮定してみると、一部が全体を表すことになる。
自然の中にはフラクタル構造は理論上あり得ないということだが、
ということは、フラクタル構造は人間の何かを表していることになる。

政党が、多数による決定を絶対のものとし、異質なものを排除する(という全体主義的傾向を示す)なら、
それは、その政党の属する国家そのものの構造を表していると言えるのではないか。

機構(ハード)としての国家のみならず、人の集まり(ソフト)としての国家も、
嫌なら出て行けばいい、やめればいい、という言説で成り立っている。

嫌だから出て行くというのは、出て行く側の論理(りくつ)であり、
それが残る側から発せられるのは排除の論理以外の何ものでもない。

異質な存在がある可能性を認め、それがどう異質なのかを理解することにつとめ、
できうる限り共存の方法を探ることが、
私たちが採用してきた(民主主義)という方法であり、
話し合い、多数決というのは、その道具に過ぎない。
話し合いや多数決という行為が、民主主義を保証するのではない。

美味しい料理を作るのに必要な包丁も、殺人の道具になる。
人を殺しておいて、これは包丁だから命を奪う意図はなかったという強弁は通らないだろう。

リスク社会とは、リスク(つまり「損」)を中心的に展開する社会であり、
それって、まったくの後ろ向き社会ではないか。
「損して得取れ」という言葉もあるが、
差し引きゼロあたりをうろうろするくらいが、私たちがいちばん幸福を感じるところではないか。
リスクゼロであることが、私たちの幸福感を満足させないことは、もうわかっている。
リスクゼロは、リスクの側へ転げ落ちる恐怖感によってなりっているのだから。

コメント

Hなコマーシャル・コメントがたくさんつく。
しばらくほうっておく。
いくつつくだろうか。

自由民主主義体制の下での少数派とは

自由民主主義体制の下での「少数派」、「多数派」とは何か。

じつは、私の頭の中には、学校時代の学級会とか、職場での会議みたいなものしかイメージがない。
あれって、自由民主主義なのか?
そもそもあれは、「民主主義」と言われていただけのような気がする。
「自由」が抜けている。
そして「民主主義」が何によって具現化されるかというと、「話し合い」と「多数決」によってなのである。

多数派になるのは簡単だ。
みんなの考えていそうなことや、発言に耳を向けて、場の雰囲気に注意していれば、多数の一人として手を上げることは容易だ。

少数派になるのは?
『笑っていいとも』だったっけ、質問をしてその答えが一人だったらストラップがもらえるのは。
他人の考えを推量しても、それが少数であるかどうかは容易に推量できるものではない。

多数派になるのは簡単だが、少数派になるのはフタを開けてみるまではわからない。
少なくとも私の経験に基づけば、そうなる。
そして少数派は、様々な意見や考えに彩られ、最終的にはばらばらである。
そりゃそうだ。統一された意見の少数派というのは、論理矛盾であろう。

「自由民主主義体制のもとでの少数派、あるいは多数派とは何か。」
自由民主主義体制とは、議会制であると言い換えていいのかわからないが、議会制は不可欠の要素であろう。
日本に於けるそれは、衆議院と参議院であれば、その議員構成から少数派を割り出すことができる。
(参照)衆議院の会派名及び会派別所属議員数
(参照)参議院の会派別所属議員数一覧
衆議院では、「国民新党・そうぞう・無所属の会」というところに分類されている人々が6人で、少数派。
参議院では、「社会民主党・護憲連合」に分類されている人々が5人で、少数派。
ちなみに多数派は、衆議院では「自由民主党」(305人)、参議院では「民主党・新緑風会・日本」(119人)。

つまり先日の問いは、次のように解釈できる。
衆議院で国民新党・そうぞう・無所属の会は、どのような役割を果たす「べき」であり、また自由民主党は、それに対しどのような対応をとる「べき」だと考えますか?
そして、
参議院で社会民主党・護憲連合は、どのような役割を果たす「べき」であり、また民主党・新緑風会・日本は、それに対しどのような対応をとる「べき」だと考えますか?

う〜ん。こうなると私には皆目見当がつかない。
せいぜい、「それぞれの立場で、それぞれの役割を果たしてください」としか言いようがない。
それぞれの会派の主張を調べて、それにたいして何らかの意見を述べることはできるだろう。
が、そんなタイギイことする気はない。
つまり、そんなタイギイと感じるから、代議員制度がある。
代議員は投票によって選出されるのだから、少数会派の代議員というのは少数意見によって支えられていることになる。

選挙制度というのは、選挙民の無責任によって維持される制度である。

日本国憲法 第十五条 4 すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない

自分の意見を具現してくれそうな代議員に投票し(しかも無記名)、代議員が具体化した政策が失敗であっても、投票者は責任を問われない(そもそも無記名なので問いようがない)。
もし記名制で、政策に責任を問われるのなら、ただでさえ低い投票率はかぎりなくゼロに近づくだろう。
私達は責任なんて取りたくないのだ。
権利は手元に置いておきたいが、義務はできうるかぎり見えないところに置いておきたいのだ。
民主主義というのは、そういう人たちのためにできた制度なのである。
制度に関する選択において、いちいち責任を問うていれば、斬首やハラキリが絶えないだろう。
近代の政治制度は、そうした架空の無名性、匿名性の上に成り立っているのである。
「法の下の平等」とはじつはそのことなのである。

匿名とは何か。
名を隠すとは、自分が自分でないことを宣言することである。
匿名とは、実体を隠してこそこそと悪事を働くことではなく、自分が自分でなくなることを容認し、自分が自分でなくなることを容認した人々の中で、自分が自分でなくなるというまるで雑煮の餅が溶けてひっついているような事態の中にいることを覚悟することなのである。

多数派も、少数派も、取るべき態度は自ずと然りなのである。

自由民主主義体制の下で少数派は、どのような役割を果たす「べき」か

次のような質問があったので、以下のように考えてみた。


質問1.自由民主主義体制の下で少数派は、どのような役割を果たす「べき」であり、また多数派は、それに対しどのような対応をとる「べき」だと考えますか?

質問2.1.の回答を踏まえ、日本の現状をどのように評価していますか?



質問の文脈上、「べき」は義務の意と思われるが、法制上、少数派及び多数派の義務は規定されていないはずなので、これは道義的、心情的義務と考えてよろしいと思われる。

しかしながら、この質問は順序が逆なのではないかと思える。
少数派があって、多数派が生じるのではなく、多数派が生じた結果、少数派である自分を発見するのが、私の経験的認識である。
そのような私的な経験にもとづいて言えば、多数派の意見が絶対的に正しいのではないということを認識させる役割を、少数派は担っている。
しかしこのことは、多数派から要請された役割ではなく、少数派に位置づけられた自分が、「体制」の中にニッチを見つけ出す必要に迫られた行動だ。

というのがわからない人がどうも最近増えているように思える。
「体制」(会社とか、仕事とか)に反対的意見を述べると、「いやなら、やめたら」という返答がいとも簡単に述べられるケースが日常的に増えているように思う。
郵政民営化をにらんだ小泉自民党のとった行動の影響ではないかと、私は考えるのだが。

これは、「自由民主主義」が無定見に「経済至上主義」と手を結んだせいだと、私はかねがね考えている。
「自由民主主義」とはじつは、「やせ我慢」、「武士は食わねど高楊枝」的精神の上に成り立っているのだと思う。
「自由」とか「民主」というのが「自分の自由」や「私が主人公」であることと、それが「主義」であることとは同時成立しない。

白川静は「義」の字義を『字統』でこう解説している。
「羊と我に従う。我は鋸の象形。羊に鋸を加えて犠牲とする意で、牲体に犠牲として欠陥がなく、神意にかなうものとして「義しい(ただしい)」の意が生まれる。」
つまり、「主義」の「義」とは、神(=自分ではないもの)によってその正当性が保証されることを表しているのである。
こうした字義からも、「自由民主主義」が自己中心とは正反対の立場に立つことがわかるであろう。

こう考えてくると、少数派も多数派も、とる「べき」立場・行動・対応は、明らかである。

という理想論がどの程度説得力を持つのか、不安であることは言うまでもない。
今の日本において、「生活」あるいは「生存」という言葉で、個人個人の欲望が保たれている。
そうした自己中心的欲望すらも保証するという日本の現状は、真の意味で「自由民主主義」なのかもしれない。
そういった観点からみれば、戦前の軍部独走の状態も、「自由」で「民主」であると言える。
戦国時代の領主、江戸時代の藩主の実体は、いかに民を安んじるかに腐心していたことか。

同じく『字統』には、「主」の字義として、
「灯火の火主の形。上の小点が火主、下部は鐙(あぶらざら)の形である。・・・〔礼記、小儀〕に、飲酒の際に主人が自ら火を執る礼をしるしている。主人・家長の意は、聖火を執るものの意から出たものであろう。・・・」
と記している。

自分が「主」であることもまた、自らに拠るものではなく、自分ではないものに根拠があるのである。
そこに「民主」の本義をすえなければ「民主主義」と名告ることは許されないであろう。

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