自由民主主義体制の下での「少数派」、「多数派」とは何か。
じつは、私の頭の中には、学校時代の学級会とか、職場での会議みたいなものしかイメージがない。
あれって、自由民主主義なのか?
そもそもあれは、「民主主義」と言われていただけのような気がする。
「自由」が抜けている。
そして「民主主義」が何によって具現化されるかというと、「話し合い」と「多数決」によってなのである。
多数派になるのは簡単だ。
みんなの考えていそうなことや、発言に耳を向けて、場の雰囲気に注意していれば、多数の一人として手を上げることは容易だ。
少数派になるのは?
『笑っていいとも』だったっけ、質問をしてその答えが一人だったらストラップがもらえるのは。
他人の考えを推量しても、それが少数であるかどうかは容易に推量できるものではない。
多数派になるのは簡単だが、少数派になるのはフタを開けてみるまではわからない。
少なくとも私の経験に基づけば、そうなる。
そして少数派は、様々な意見や考えに彩られ、最終的にはばらばらである。
そりゃそうだ。統一された意見の少数派というのは、論理矛盾であろう。
「自由民主主義体制のもとでの少数派、あるいは多数派とは何か。」
自由民主主義体制とは、議会制であると言い換えていいのかわからないが、議会制は不可欠の要素であろう。
日本に於けるそれは、衆議院と参議院であれば、その議員構成から少数派を割り出すことができる。
(参照)
衆議院の会派名及び会派別所属議員数(参照)
参議院の会派別所属議員数一覧衆議院では、「国民新党・そうぞう・無所属の会」というところに分類されている人々が6人で、少数派。
参議院では、「社会民主党・護憲連合」に分類されている人々が5人で、少数派。
ちなみに多数派は、衆議院では「自由民主党」(305人)、参議院では「民主党・新緑風会・日本」(119人)。
つまり先日の問いは、次のように解釈できる。
衆議院で国民新党・そうぞう・無所属の会は、どのような役割を果たす「べき」であり、また自由民主党は、それに対しどのような対応をとる「べき」だと考えますか?そして、
参議院で社会民主党・護憲連合は、どのような役割を果たす「べき」であり、また民主党・新緑風会・日本は、それに対しどのような対応をとる「べき」だと考えますか?う〜ん。こうなると私には皆目見当がつかない。
せいぜい、「それぞれの立場で、それぞれの役割を果たしてください」としか言いようがない。
それぞれの会派の主張を調べて、それにたいして何らかの意見を述べることはできるだろう。
が、そんなタイギイことする気はない。
つまり、そんなタイギイと感じるから、代議員制度がある。
代議員は投票によって選出されるのだから、少数会派の代議員というのは少数意見によって支えられていることになる。
選挙制度というのは、選挙民の無責任によって維持される制度である。
日本国憲法 第十五条 4 すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。
選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。
自分の意見を具現してくれそうな代議員に投票し(しかも無記名)、代議員が具体化した政策が失敗であっても、投票者は責任を問われない(そもそも無記名なので問いようがない)。
もし記名制で、政策に責任を問われるのなら、ただでさえ低い投票率はかぎりなくゼロに近づくだろう。
私達は責任なんて取りたくないのだ。
権利は手元に置いておきたいが、義務はできうるかぎり見えないところに置いておきたいのだ。
民主主義というのは、そういう人たちのためにできた制度なのである。
制度に関する選択において、いちいち責任を問うていれば、斬首やハラキリが絶えないだろう。
近代の政治制度は、そうした架空の無名性、匿名性の上に成り立っているのである。
「法の下の平等」とはじつはそのことなのである。
匿名とは何か。
名を隠すとは、自分が自分でないことを宣言することである。
匿名とは、実体を隠してこそこそと悪事を働くことではなく、自分が自分でなくなることを容認し、自分が自分でなくなることを容認した人々の中で、自分が自分でなくなるというまるで雑煮の餅が溶けてひっついているような事態の中にいることを覚悟することなのである。
多数派も、少数派も、取るべき態度は自ずと然りなのである。