見えないものは見えない。見えているものも見えない。
吾十有五而志于学。
【吾】
五と口に従う。五は木を交叉して器の蓋としたもの、口は※(さい)、祝祷を収める器の形。その祝祷をまもるために器蓋を加え、敔(まもる)意。~〔説文〕二上に「吾自ら稱(い)ふなり」とは一人称で仮借義。~
【十】
算具に用いる縦の木の形。
【有】
又と肉とに従う。肉をもって神に侑(すす)める意。~金文には「天の有する大命」~など、保有の意に有を用いる。
【五】
交錯する木をもって作られた器物の形。これを数の五に用いるのは、仮借である。~五は聖数であるから、五行・五徳など名数の語は甚だ多く、千数百にも及んでいる。
【而】
頭髪を髠(こん)にした人の正面形。雨請いする巫祝(ふしゅく)の姿で、需とはその巫祝によって雨請いをし、雨を需(もと)め需(ま)つ意である。~而を接続詞・助詞・代名詞に用いるのは、すべて仮借である。
【志】
~〔詩序〕に「詩は志の之(ゆ)く所なり。心に在るを志と為し、言に発するを詩と為す」とあり、それで志を心の之往(しおう)(ゆく)する意の会意とし、~
【于】
曲がった形を作るためのそえ木。また刃の長い曲刀の形。~於・乎・為・与などに通用するのは声の仮借、~
【学】
旧字は學、もと屋上に千木のある建物の形で、いわゆるメンズハウスを意味した。~卜文にみえるメンズハウスの建物は千木形式で、わが国の神社建築と似ており、そこで秘密講的な、厳しい戒律下の生活がなされたのであろう。~教えることは、自己の学習に外ならぬことである。
「十有五」とは十を保ったままの五と解釈できるので、そのまま十五でよかろう。
「志」は心が往く。
「學」は学問と解されてきたが、白川のいうように「いわゆるメンズハウス」であれば、それに心が往くとは、たんに学問をすることではなく、自ら学び、やがて教え、と、学教ともに志すことであろう。
学びが「いわゆるメンズハウス」でなされるのなら、学びとは必然的に結社を生みだし、また結社の中でしかなされないだろう。
「志于学」とは、「メンズハウス」的生き方を目論むことであり、世間的な価値観と訣別することを覚悟することであろう。
「肉をもって神に侑(すす)める意」である「有」を用い、「聖数」である五を配したのも、その決意ゆえであったかもしれない。
わたしは十に加えること五で、世間的な価値を捨て仲間とともに生きることに心が往く。
「学而不思則罔。思而不学則殆。」とは、そのように学びあい、教えあう共同生活の中で、自然に身についた感想として納得できる。
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