見えないものは見えない。見えているものも見えない。
四十而不惑。
【四】
~初形は算木四本を重ねた形。四は口四の省文で音の仮借。~
【不】
否定・打消の「ず」に仮借して用いる。もと象形で花の萼柎(がくふ)の形であるが、その義に用いられることは殆どなく、その本義には柎(ふ)などを用いる。~不を否定詞に用いることは、卜辞以来のことで、代名詞や否定詞を充足することは、文字成立の条件であるから、これらの字ははじめから仮借的な用法をもつ字であったと考えられる。卜字における貞問(ていもん)の形式は、「今日雨ふるか」「今日雨ふらざるか」のように肯定と否定の命辞を左右に排して刻する例であるから、否定詞がなくては卜法も成り立たない。~
【惑】
声符は或(わく)。或に限定の意があり、それより疑惑の意を生ずる。〔説文〕一〇下に「亂るるなり」とあり、惑乱・疑惑をいう。限定することから、選択に迷う心情をいう。
言語表現において、打消/否定は無存在ではない。
安藤次男が蕪村句の評釈で述べているように、
菜の花や鯨も寄らず海暮れぬ 蕪村
ここには幻の鯨が海のうね間に見え隠れしている。
「字統」の解説からは、文字が眼前の物だけを指すのではないことに気づいていく様子が、うかがえるようである。
四十で迷わない
不惑ということは、惑っていたということである。
孔子が何に迷い惑い疑っていたのかは明らかにされない。
しかし、確かに迷い惑い疑いの渦の中におり、そこから抜け出しがたかったのだということは、わかる。
迷わないということは、迷いがなくなったのではなかろう。
迷わせ惑わせ疑わせるものの渦中に、いまだ抜け出せずにいる。
しかし迷わないことにする、ということでなかろうか。
自分は間違っているかもしれない、たぶん高い確率で自分は間違っているだろう。
間違っていてもいいじゃないかという、居直りではない。
間違っている自分を引き受けるのは自分でしかない、という覚悟のようなものではないだろうか。
たぶん、この迷わないということが、天命を知ることにつながっていくのだろう。
そんな気がする。
カレンダー
カテゴリー
フリーエリア
最新CM
最新TB
プロフィール
ブログ内検索
P R
カウンター