見えないものは見えない。見えているものも見えない。
先日の文章がどうにも気にくわない。
「知天命」とは何か、わからぬままに言葉を並べて、けっきょく墜落、堕落してしまった。
したり顔の文章が、気にくわない。
白川静の「字統」にしたがって、もういちど考えてみる。
子曰
【子】
幼子の象。~この字形を冠する子鄭(してい)・子雀(しじゃく)は、王子の身分にして鄭・雀を領するものを意味したが、その慣行がのちにまで及んで、字(あざな)を子(し)某といい、所領の地名にかえて、名と対待の義をもつ字(あざな)を用いた。顔回、字は子淵、淵は回水をいう。仲由、字は子路、路は人の由るところ。~子を尊称・二人称とする用法は、そこから生まれる。~
【曰】
祝詞など心霊に告げる書を収める器である※(さい)の蓋をすこしあけて、中の祝祷の書をみようとする形。曰とはもと神託・神意を告げる意である。
先生のことばを見れば、
「子」とは、王子の身分で領土を持つ者を由来とする尊称。
ただし、子淵、子路と、孔子とでは順序が違う。
大事なものが後に置かれる東南アジアの語法に従えば、子が後に置かれるほうが敬意を表す意が強いだろう。
「曰」には、たんに行為を指し示しているのではなく、言葉そのものの霊性の前にかしこまる姿勢が表されている。
音声としての言葉は、発するはしから空気に吸い込まれるようにして消えていくのに、それを聞いたものの耳奥には、それが発された時そのままの姿で、存在している。あるいは、存在しているように私たち人間は感じてしまう。
言葉が霊性を持つとは、そのようにして感得されるのだろう。
自分がかつて聴いた、記憶された言葉を思い出すとは、神秘的で神聖なものであろう。
言葉の記憶が、印刷や録音などのメディアによって、容易に大量に複製されることによって、言葉の霊性は隠蔽されるが、言葉の本質は、変わらないだろう。
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