見えないものは見えない。見えているものも見えない。
三十而立。
【三】
横画三本を並べた形。細長い木などを用いた古い数とりのしかたを、そのまま字形に示したもの。~三は聖数とされ、その名数の語彙は千数百に及んでいる。~
【立】
大と一とに従う。一はその立つところの位置を示す。それで金文には、立つという動詞と、位という名詞に用いる。〔説文〕一〇下に「住(とど)まるなり」とあり、一定の所に立つ意。~ものをはじめることを立案・立法・立制、時期のはじめを立春、また意見を述べることを立言・立論、人格・信条の基調を確立することを立徳・立命という。
三十で自分のやることが始まる
十五年の学びののちに、自らの道が始まった。
イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった。〔ルカによる福音書3章23節〕
二千年、二千五百年前の三十歳はどのようだったのだろう。
多くの人が早死にする中で、三十はいい年だったろうという人もいる。
イエスが宣教を開始したのも、仕事はもういいだろうという考えだっただろうと聞いたこともある。
私の父は去年八十一になったが、自分より年上の者が町内にほとんどいなくなったとつぶやいたことがあった。
そんな存在だったのだろうか。
イエスはわずかな月日のうちに、十字架上で刑死する。
孔子は打ち据えられることなく七十五まで生きたが、不遇であった。
「立つ」とは、孤独を選択することなのだろうか。
孤独が自分の立つ位置の認識を、いやおうなく促すのだろうか。
http://threeshiko.exblog.jp/8876752/には孔子の生涯が詳細に検証されていて興味深い。
が、私は孔子の言葉を履歴にあてはめることはせずにおく。
孔子の言葉を体験した人々に倣う。
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