西行『山家集』羇旅歌に、
串にさしたる物をあきなひけるを、何ぞと問ひければ、
はまぐりを干して侍るなりと申しけるを聞きて
同じくはかきをぞさして干しもすべきはまぐりよりは名もたよりあり
という歌がある。
この歌の前に真鍋島に京から商人がやってきて商売をしているという歌があり、この歌も真鍋島での歌だろうか。
真鍋島はここ
同じことなら牡蠣を串に刺して干せばよいのに、はまぐりよりは名が頼みにできるのに
といった意味だろうか。
『山家集』羇旅歌は次のような歌で始まる。
旅へまかりけるに入相をききて
思へただ暮れぬとききし鐘の音は都にてだに悲しき物を
このわびしさに比べて何とたわいのない歌だと思っていたのだが、
「かき」=「牡蠣」・「書き」
「たより」=「頼り」・「便り」
と、掛詞が掛詞にならないままに、縁語としてつながっていく。
新古今風の謎解きのようで、もっと直截である。
同じことなら牡蠣を串に刺して干せばよい、はまぐりよりは名前も便りに縁があり、頼みにできるのだ
とくに句切れの「干しもすべき」の破調の断定ぶりや、下の句「たよりあり」と逆接ではないあたりに、西行の面目があるように思える。
たわいなく思えて、旅にあって都を思う心を詠んでいるのである。
このあたり、慎重に考えねばならない。
西行は、都を思って詠んでいるのではない。都を思う心を詠んでいるのである。
都を思う心にこと寄せて、旅の軽快さを詠んでいるのではないかと思える。
都を思う心とは、故郷を思う心とは違うのだろうか。
違うように思うのだが、鄙の出である私には、よくわからない。
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なま考えのまま、偉そうなことを書こうとして、よくわからぬ文章になってしまった。
今年も夏の旅に出かけようと思う。
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