見えないものは見えない。見えているものも見えない。
森か林に入って、木漏れ日のつくる影に見入る。
あるいは目を上げて、木々の葉漏れの日差しを、目を細めて見る。
私の欲している音楽とは、そんなものな気がする。
「資本主義」という言葉に、私たちは汚染されてしまった。
「資本主義」の対義語は、じつは、ない。
冷戦構造の中で、私たちは、「資本主義」対「共産主義」と定義づけられたように思っていたが、
共産主義は、資本主義の高度に発達した段階であるはずだった。
(すくなくとも)マルクスはそう定義したと思う。
今私たちは、資本主義の失敗の渦中にいる気がしてならない。
その失敗とは、対義語の設定ミスなのかもしれない。
「資本主義」の対義語は何か。
という命題を解くには、資本主義の前段階を想起すればよいのかもしれない。
それは「王権」なのだろうか。
どうも実際のところ、そのあたりが判然としない。
もちろん、社会学的、歴史学的に対義語を定義できるのかもしれないが、
では実際の私たちは「資本主義」でないものを何だと思っているのか。
つまり、何を恐れて、資本主義であろうとしているのだろうか。
あるいは、私たちの「資本主義」とは何なのか。
たとえば、チェーン店業界。
「売れる」という名のもとにあるが、実は収益主義であり、
それは「拝金主義」と一時期は呼ばれていたのではないか。
そこでは「収益」のあがらぬものは排除される。
価値のないものとして排除される。
その結果として画一化が促進されるのだが、その画一化の裏に「価値」判断がひそんでいることに、
私たちは気づいているのだろうか。
良いものは万人に受け入れられる。
万人に受け入れられるものは価値があり、少数のものにしか受け入れられないものには価値がない。
そして、価値のないものは良いものではない。
そういう判断を、私たちは、自分自身の判断の前に、受け入れさせられてはいないだろうか。
誰にもほめられないものを、得にもならないのに、なしていくことの意味を、私たちは忘れ、わからなくなっていっている。
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