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web florva不定期日記

見えないものは見えない。見えているものも見えない。

Studio One 新規

もうずいぶん新曲ができてない気がする。
二日前、Studio OneとCubaseとで迷って、少し値段の安かったStudio Oneにしたのだが、Sounnd Cannvas V/A非対応だった・・・orz
Cubaseも、買おうか・・・すると計10万近くの出費になる・・・

それはともかく(でもないが)、Studio Oneの設定について。
Triton TaktikleはMIDIキーボードとしては、新規キーボードで認識。
コントローラーとしては、難儀したが、Mackie HUIを選んで、DAWinを送信元、DAWoutを受信元に設定でおK。
Triton Taktileの設定は、ProToolsで。

Vstの在処があちこちにあるので、最初探し探ししていたが、Cakewalkの設定を開いて確認。
Vocaloid、Sound Canvasも使えるようになった。

印象的には、ちまちまピアノロールで打ち込むより、リアルタイム入力の方が精神的によい。
録音の方が、もっとよい。

Cakewalkのような実機に似せたデザインは省いて、なんだか漫画みたいなデザインだが、割り切っていてそれでいい。
Sound Canvasの操作性は、悪い。
リバーブ、コーラスの操作が、どこからもできず、Sound Canvasを操作するしかない。
逆にCakewalkは、リアルタイム入力するのにやる気が必要。
単なる印象の話だが、曲を作る上では、とても重要な要素。

オリジナルファイル形式が互換性がないので、SMFでやりとりできるが、使い分けるしかない。

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Alban Berg - Concerto for Violin and Orchestra


私たちが何かを理解しようとするとき、私たちは何かの「補助線」を引く。
そのものを「わかる」ことと、「理解する」ことのあいだには、消え去った補助線以上に、
「無理解」がある。

「資本主義」

森か林に入って、木漏れ日のつくる影に見入る。
あるいは目を上げて、木々の葉漏れの日差しを、目を細めて見る。

私の欲している音楽とは、そんなものな気がする。

「資本主義」という言葉に、私たちは汚染されてしまった。
「資本主義」の対義語は、じつは、ない。
冷戦構造の中で、私たちは、「資本主義」対「共産主義」と定義づけられたように思っていたが、
共産主義は、資本主義の高度に発達した段階であるはずだった。
(すくなくとも)マルクスはそう定義したと思う。

今私たちは、資本主義の失敗の渦中にいる気がしてならない。
その失敗とは、対義語の設定ミスなのかもしれない。

「資本主義」の対義語は何か。
という命題を解くには、資本主義の前段階を想起すればよいのかもしれない。
それは「王権」なのだろうか。
どうも実際のところ、そのあたりが判然としない。
もちろん、社会学的、歴史学的に対義語を定義できるのかもしれないが、
では実際の私たちは「資本主義」でないものを何だと思っているのか。

つまり、何を恐れて、資本主義であろうとしているのだろうか。
あるいは、私たちの「資本主義」とは何なのか。

たとえば、チェーン店業界。
「売れる」という名のもとにあるが、実は収益主義であり、
それは「拝金主義」と一時期は呼ばれていたのではないか。
そこでは「収益」のあがらぬものは排除される。
価値のないものとして排除される。
その結果として画一化が促進されるのだが、その画一化の裏に「価値」判断がひそんでいることに、
私たちは気づいているのだろうか。

良いものは万人に受け入れられる。
万人に受け入れられるものは価値があり、少数のものにしか受け入れられないものには価値がない。
そして、価値のないものは良いものではない。
そういう判断を、私たちは、自分自身の判断の前に、受け入れさせられてはいないだろうか。

誰にもほめられないものを、得にもならないのに、なしていくことの意味を、私たちは忘れ、わからなくなっていっている。

バルトーク 中国の不思議な役人

またしてもひと月以上空いてしまった。
忙しかったのかというと、忙しかった。
ふだんの1.5倍だけ忙しかった。
それだけで何かを考えたり、言葉にすることがおっくうになる。
体力がついていかない。
なんだか寂しいが、これが2倍の仕事量になったら、仕事すらできなくなる。

さて、仕事とは別の話。
今、バルトークの「中国の不思議な役人」をやっている。
各所に「春の祭典」を意識したような響きが聞こえるのだが、スコアは「春の祭典」より単純に見える。
もちろんそれは、細かい音符での変拍子が、楽譜上少なく見えるというだけだが。
しかし、バルトークの音楽は楽譜を音にするだけではなかなかできあがらない。
いやそんなことは、どの、だれの、曲でも一緒なのだが、
バルトークの場合、スコアの遥か上に特殊な倍音が響いているような気がしてならない。
スコアリーディングだけでは、読み取ることのできない、不思議な音響が、あるいはそれは気分と言ってもいいものかもしれない、ただよっている。

それがバルトークの難しさ、演奏も聴取も、なのだろうか。

バルトークは夜の音がよく聞こえたという。
遠くの森でなく獣の声や、数十分後に訪ねてくる友人の足音を、確実に聞き取ったという。
バルトークの音楽を覆い、ただよう不思議な音響、倍音が、そんなこともあろうと信じる気にさせる。

そういった音響、倍音が出せる演奏に仕上げたい。

五月のシェーンベルク

ゴールデンウィークも終わり、いつもの日々が戻ってきたが、植物の緑はいよいよ青さを増していく。
気温は二十五度前後まで上がるが、湿度が低いため風が気持ちよい。

そんな昼下がり、シェーンベルクの組曲作品第二十九番を聴きながら、まどろむ。

シェーンベルクの作品は、二十世紀初頭の奇形な音楽としてとらえられがちであるが、まどろむ耳と頭には爽やかな五月の風と何ら違和感なく感じられる。

シェーンベルクは、その経歴とはべつに、音と音の関係を音楽にしたのだと、私は思う。
それは、風が木の葉をかすめ、さまざまな向きに生えている木の葉が、さまざまな音を奏でることと、ほとんど同位置にあるのではないか。

シェーンベルクの講義を聞いたケージが、偶然の音楽に向かったのも、必然であったのである。

私たちは、さまざまな自然現象にも、意味を付与しようとする。
それが、「単なる音」であってもだ。

シェーンベルクは12音技法を編み出したとき、ドイツ音楽の優位が100年保証されると言ったという。
それは、表現としての音楽ではなく、音の法則としての音楽であったはずだ。
それに奇形としての意味を付与しているのは、その音を聴いている私たちなのである。

Nobody Is Right

私は中島みゆきに何の興味も持たないが、その作品に現れた才能や人格には敬意を覚える。

先日深夜ラジオから流れてきたこの曲、「Nobody Is Right」には驚いた。
驚いたという言い方が当を得ているかどうか。

「中島みゆきは何を怒っているんだ!?」
というのが正直な感想だった。
歌詞も、ゴスペル調のアレンジも、率直な怒りの表明へと直結している。

気になってネットで歌詞を調べたのだが、この歌によって癒されたという感想が目に入った。
人が何によって癒されるかはそれぞれで、それによってその人その人を批評することは、真の意味でできないことだ。
昨日癒された歌に、今日は癒されないし、
昨日まで何でもなかった30年前の歌に、今日は涙が止まらないこともある。

Nobody Is Right
という直截な表明は、パラドクスになっている。
「正しい者は誰もいない」のならば、
「正しい者は誰もいない」と言っている「私」も正しくない。
ゆえに、「正しい者は誰もいない」というのは正しくない。

そうしたパラドクスの前で、私たちはどういう態度を取るのだろう。

ポール・サイモンは「Something So Right」の中で、自分が間違っていることの認識の難しさと同時に、自分が正しさの中にいることの居心地悪さを歌った。
自分が正しいと言うことは、不確かさや気恥ずかしさを、多かれ少なかれ伴うものであるはずだ。

自分が正しいと声高に言うものは、嘘つき・詐欺師のたぐいだというのが、私たちの古典的認識であるはずだ。
そうでなければ、よほど追い詰められている、正気を保つことが困難なほど追い詰められているのであろう。

「nobody」という語は「世界中の誰でもない」という意味である。
私の周囲のあいつやあいつやあいつや、という意味ではない。
「正しい者なんか世界中に誰もいない」という言が正しいと保証されるのは、正気が保てないほどに追い詰められている人間だけだ。
そして怒りが正当化されうるのも、またそうした人間だけだ。

中島みゆきがここまで身も蓋もなく、楽曲的な洗練も投げ捨てて、歌うからには、
「中島みゆきは何を怒っているんだ!?」
なのである。
世間的な、つまり個人レベルを離陸した怒りといったものなら、パラドクスや怒りの正当性は保証され得ない。
彼女は、個人的に本当に心底徹底的に、怒っているはずでなければならない。
そしてそれが、私にはわからないのだ。
歌を聴くだけでは、歌詞を読むだけでは、私には何もわからない。
怒りというのは当事者同士でなければわからないものだから、それでいいのだろう。

でも、人混みの中で怒り狂っている人を見ると、気になるというのが人情というものだろう。
Nobody Is Right 中島みゆき 歌詞情報 - goo 音楽

Chicago/Earth,Wind&Fire Live At The Greek Theatre

何の気なしに、シカゴとアース・ウィンド・アンド・ファイアーの2004年のグリークシアターでのライブのDVDを買った。
どちらも私の70年代のアイドルである。

その後しばらくして、イエスを「フラジャイル」から「リレイヤー」までつづけて聞いた。
その時、なんて白人はあれこれしたがるのかと、思った。
「白人」とひとくくりにするのは差別的な発想なのだが。
正確に言えば、ヨーロッパ発祥の音楽に基盤をおいた音楽ということになろうか。

アフリカ系アメリカ人の音楽に比して、ヨーロッパ発祥の音楽は、展開を求める。
今の私には、求めすぎるのだが。
繰り返しを嫌うことが、ヨーロッパ音楽の基本である。
もちろんシャコンヌのような形式もあるが、それでも変化・展開を際だたせるための反復である。

シカゴの音楽は展開を求め、E.W.&F.の音楽はここにとどまりつづける。
どちらが良くて、どちらが嫌いということではない。
今の私は、後者に馴染むというのである。

アインシュタインが、アフリカ系のエートスに基づいた人であったらどうだったろう。
という命題を思いついた。
アインシュタインは三次元座標に時間座標を加えることで、特殊相対性理論を考えた。
(と私は理解している)
時間軸に沿って展開・変化するのではなく、時間軸に沿いながらここにとどまるという発想で、
どのようなモデルができるのだろうか。

いや、アインシュタインの発想・モデルが、そうした単純なものではないのはわかる気がする。
それは「アインシュタインの」ではなく、やはりヨーロッパ的発想のことを、私は言っているのかもしれない。
ダーウィンの進化論も、やはりそうした展開・変化に軸をおいたヨーロッパ的発想であろう。

アフリカ系アメリカ人の音楽、とくにR&B系の音楽は、ここ以外のどこにも行けない、存在できないという彼らの生活・歴史の中で形づくられたものであるにちがいない。
そうした発想で、この世界はどのように描きうるのだろうか。

そして私・日本人は、どのような世界を持ち、どのように世界を描くことができるのだろうか。

2000年前後は

「真夏のCDTVスペシャル‘07〜世界陸上も大応援!最強なつソング&上半期大ヒット濃縮300曲決定版!」 という番組を見ている。

99年から02年くらいまでの歌が、私の理解外にある。
それが04年くらいから理解の内にある。
音楽が回帰したというのだろうか。
それとも後退なのだろうか。
あるいは世相というものと相関関係があるのだろうか。

BGM

雨が屋根を打つ音を聞き、
滴るような緑の木々や草の陰に思いをはせていた日々を思う。
新しい曲を作ろうとするが、どの音も私の思いにそぐわない。

考えてみれば、ツールをPCに変えてからアルバムはできてない。
html詩集のBGMくらいか。

もう少し、「何かが降りてくる」のを待つ。

「個人の知が共鳴し合い、新たな知が生まれる」というゼロックスのCM。

見るとはなしに点けていたNHK−TVで、アンダーグラフ「また帰るから」を聞いた。
自分が共感できないものに批判を加えるのは、悪口に過ぎないのだが。
歌詞の内容は、かつてのフォークのように個人的立場の表明なのだが、
たぶん音がそう聞こえさせているのだろうが、音楽家である以上音と言葉は不可分であるので、
言葉が、安易な自己認識の上に成り立っていて、それを支持する層がある(NHKに出ているから)と言うことは、
そうした自己認識が多く存在しているのだろうという手触りがある。

自己否定を含まない自己認識が、いくら共鳴しあっても、新しいものは生まれはしないだろう。

歌舞伎のパリ・オペラ座公演も見た。
徹底した自己否定の上に成り立つ技芸がそこにある。
自分の肉体の癖や限界を乗り越える、つまり自己の否定からしか成り立たない表現がある。
いや、表現とはそうした自己認識の上にしか成り立たないものではないか。

Wikipediaも新たなガイドラインを導入した。
目の前にあるたったひとつの鍵盤を、どれほど上手く鳴らすかという修練なくては、いくら共鳴しあっても新たなるものは生まれないだろうし、生まれたところでたいしたことはない。

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