私は中島みゆきに何の興味も持たないが、その作品に現れた才能や人格には敬意を覚える。
先日深夜ラジオから流れてきたこの曲、「Nobody Is Right」には驚いた。
驚いたという言い方が当を得ているかどうか。
「中島みゆきは何を怒っているんだ!?」
というのが正直な感想だった。
歌詞も、ゴスペル調のアレンジも、率直な怒りの表明へと直結している。
気になってネットで歌詞を調べたのだが、この歌によって癒されたという感想が目に入った。
人が何によって癒されるかはそれぞれで、それによってその人その人を批評することは、真の意味でできないことだ。
昨日癒された歌に、今日は癒されないし、
昨日まで何でもなかった30年前の歌に、今日は涙が止まらないこともある。
Nobody Is Right
という直截な表明は、パラドクスになっている。
「正しい者は誰もいない」のならば、
「正しい者は誰もいない」と言っている「私」も正しくない。
ゆえに、「正しい者は誰もいない」というのは正しくない。
そうしたパラドクスの前で、私たちはどういう態度を取るのだろう。
ポール・サイモンは「Something So Right」の中で、自分が間違っていることの認識の難しさと同時に、自分が正しさの中にいることの居心地悪さを歌った。
自分が正しいと言うことは、不確かさや気恥ずかしさを、多かれ少なかれ伴うものであるはずだ。
自分が正しいと声高に言うものは、嘘つき・詐欺師のたぐいだというのが、私たちの古典的認識であるはずだ。
そうでなければ、よほど追い詰められている、正気を保つことが困難なほど追い詰められているのであろう。
「nobody」という語は「世界中の誰でもない」という意味である。
私の周囲のあいつやあいつやあいつや、という意味ではない。
「正しい者なんか世界中に誰もいない」という言が正しいと保証されるのは、正気が保てないほどに追い詰められている人間だけだ。
そして怒りが正当化されうるのも、またそうした人間だけだ。
中島みゆきがここまで身も蓋もなく、楽曲的な洗練も投げ捨てて、歌うからには、
「中島みゆきは何を怒っているんだ!?」
なのである。
世間的な、つまり個人レベルを離陸した怒りといったものなら、パラドクスや怒りの正当性は保証され得ない。
彼女は、個人的に本当に心底徹底的に、怒っているはずでなければならない。
そしてそれが、私にはわからないのだ。
歌を聴くだけでは、歌詞を読むだけでは、私には何もわからない。
怒りというのは当事者同士でなければわからないものだから、それでいいのだろう。
でも、人混みの中で怒り狂っている人を見ると、気になるというのが人情というものだろう。
Nobody Is Right 中島みゆき 歌詞情報 - goo 音楽
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