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web florva不定期日記

見えないものは見えない。見えているものも見えない。

死者〜携帯電話

携帯電話をかけながら、何人ものサラリーマンが歩いていく。
そして、私も。
こんな世界に、私たちは住みたかったのだろうか。
こんな世界を何十万年かけて、私たちは築いてきたのだろうか。
たぶんそうなのだろう。
私たちが選択肢を選び続けた結果が現在なのだから。

『死者と交わる言葉』は書きかけだ。
「死者」を理解するためには、「死」を理解する必要があろう。
「解釈」ではなく「理解」が。
「理解」とは言葉に置換することではなく、深く体内に取り込むことでもある。
一番身近な一人である母の死を経験して、死の理解の困難さに直面しているのだろうか。
「死」の縁を覗きこみ得て、その深さ、見えなさに、自らの理解と言葉が追いついていないのだろうか。

私たちは孤独だ。
携帯電話をかけ終わったところで、彼らは私に話しかけるわけでも、ほほえみかけるわけでもない。
私もだ。
言葉は、私たちが孤独であることを、一時忘れさせる。
言葉を発するとき、言葉を受け入れるとき、私たちは孤独を忘れる。
それは孤独であることから逃れようとする行為だから。
言葉がとぎれるとき、私たちは孤独に耐えねばならなくなる。
逃れるという行為をつづけることでしか、私たちは逃れることができない。

犬たちは孤独か。猫たちは孤独か。
彼らが孤独さを見せないのは、言葉を持たないからか。
自分が生きており、他も生きているという認識だけが、孤独から救ってくれるのだろうか。
自分が他者の生を養い、他者によって自分の生が養われていることが、たんなる観念としてしか存在しない今の私たちにとって、孤独というものは私たちの感覚を麻痺させつづけ、もはや孤独であるということを感じさせなくなっている。
持続的な痙攣が運動を困難にさせるパーキンソン病のような症例が、私たちと孤独の間に見られる。
言葉によってしか、私たちは孤独から逃れることができないのなら、やはり、現代とは、私たちが選択肢を選んだ結果やってきた、必然であろう。

「死」とは、誰一人として逃れることのできないものであるが、逃れる行為をつづけることによって逃れられると条件付けられた私たちに、「死」を見つめることができることはないだろう。
『死者と交わる言葉』は、その矛盾を描き出すこと。
「解釈」ではなく「理解」すること、深く体内に取り込むこと。
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