忍者ブログ

web florva不定期日記

見えないものは見えない。見えているものも見えない。

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

触る

山本参議院議員に端を発した天皇に関する議論は、
福島原発事故に端を発した原発議論とトートロジーなのかもしれない。

原発をめぐる議論は、賛成論と反対論の周りをぐるぐるするばかりで、
原発事故をどう収束させるかという実効的議論は、局地的にはなされているのだろうが、
政局的議論や、特にマスコミ上の議論としては、国家的話題とはなっていないと思える。

たしかに原発事故を収束させるのは、専門家たちの実際的な行為しかないのだが、
原発だけでなく放射能汚染も含めて、現実は収束へ向かってさえいない。
そうした現実の中で、原発の賛否を議論することは、
原発事故という現実を、我々の現実から遠ざけているに他ならないだろう。

天皇に関する議論、特に昨夜のラジオでの議論は、憲法解釈上の議論で、天皇そのものに手を伸ばすことはなかった。

福島の現実に触れることのない原発議論。天皇に手を伸ばすことのない天皇論。
天皇が皇后とともに福島に出かけて被災者と言葉を交わすことは、二人のヒューマニティの溢れんばかりの発現であるだけではなく、無意識下の交感であるかのようにも、また思える。

あるのにないかのようにされている生存。
我々がどのような言説を用いても、それが単なる解説にしか過ぎない、つまり、手を伸ばして触れようともしない存在。
私たち人間が何かに触れるということは、つねにそういうことだったのかもしれない。

新約聖書にも何人か登場してくる。
行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施し、わたしに従いなさいと言われて、悲しげな顔で立ち去るたくさんの財産を持っていた青年(マタイ19:22)。
良きサマリア人の話の後、行って同じようにしなさいと言われた律法の専門家(ルカ10:25)はそれからどうしたのだろうか。

たくさんの財産を持っていた青年の行動は、私たちの本能なのだろうか。

「宗教」ということさらな舞台の上では、私たちは自分の財産をすべてなげうつことができるだろう。
今ここで私は、私のすべての財産をなげうつことができるだろうか。
またすべての財産をなげうつことが、すべての財産をなげうつことになると考えているのだろうか。



だれも触ろうとはしない。
ただそれを解釈しているだけ。
そのことに気づかない。
PR

五十年六十年

五十年六十年我らは小さき野分哉

叩かれて

叩かれて蚊に生まれけり今朝の秋

農業


農業が、奴隷的搾取対象であるとしたのは、マルクス=レーニン主義だっただろうか。
それは、そうした定義によって、産業主義社会を速成に達成しようとする方便だったのだろうか。

私たちが生きるということは、どういうことなのだろうか。
私たちが、自由であるということは。

私たちは、ある基準を与えられた、その中で、私たちの生きるということ、自由であるということを、考えたり、感じたりしているのだろうか。

革命理論は、上と下の方向感覚を必須とする。
レボルーション(revolution)は回転を意味するのであるから、上下あるいは遠近の感覚を元としている。
また、命が革(あらたま)るとは、時間軸での回転・遠近となるだろうか。

マルクス=レーニン主義が革命に基礎を置き、
そのときの下位に位置せられると定義づけられるものを見るとき、
貨幣を中心に動く社会を視野の中心に据えたとき、
貨幣ともっとも隔たった存在であるのが、農業であった。

いや、農業は今でもそうであろう。
が、ことは農業のみにとどまらない。
じつは、産業革命以前に存していたほとんどの「職業」が、
貨幣を中心とする社会(貨幣経済社会)の中での位置づけを持っていなかった。
たとえば、教師、医師、といった「師」のつく生業。

貨幣経済社会の初期において、貨幣を扱わない職業のうち、
もっとも就業人口の多い農業が、「回転」の重心を占めたのは、
人の生活を回転板にピン留めしなければ、回転が成り立たないからだった。

私たちは今、貨幣経済の終末に届きそうなところにいるのかもしれない。
それは、そういった貨幣経済以前から存在する生業が、
貨幣経済の回転板の中にピン留め(ピンナップ)されているからだ。

貨幣とは、価値の数値化であり、数値化とは可視化である。
初期キリスト教徒が「見えないものに目を注ぐ」と記したのは、
数値化の拒否であり、回転板にピンナップされることの拒否なのである。
そう考えれば、数値化(つまり金儲け)が神の意志と同化されるプロテスタンティズムは、
歴史の必然とはいえ、初期キリスト教からは隔たっているといえる。

「合理」とされるものは、じつは回転板にピンナップされているということなのであろう。
上に行ったり、下に行ったりできるものなのであろう。
そうした上下や遠近の感覚が、本来は通用しないものが、ほんとうは私たちの生活や生そのものの周りに満ちている。

「目に見えないものが尊い/真に大切なものは目に見えない」とは、
私たちが容易に納得し、しばしば口にするものである。
しかし、それが何なのかと問われるとき、
私たちはそれを「愛」という言葉に代表されるような、曖昧な意味を指し示す言葉しか、口にできない。
しかしそれは、地上に満ちる空気のように、だれかが独占できるはずもなく、そして目に見えることもなく、砂礫や塵埃のように、そこかしこに見向きもされず充ち満ちているのである。

セクシー


なぜ足に指があるのだろう。
手指との類似性から、私はそう考えてしまう。
手指と比して、あまりに無能であり、無能ゆえに無防備な足指。

たとえば性器は、私たちの「文化」や「文明」の中では
「わずかに見えるもの」として阻害的な扱いを受けてきた。

「文化」や「文明」の中で無能であり無防備であるものこそが、
私たちの「セクシャリズム」を担ってきたのだとすると、
足指のセクシャリティはそうそう看過できないものである。

私たちの足は歩くことに特化されてきた。
その中で足指は、解剖学的、運動生理学的見地ではなく、
実地の肉体感覚からして、
有意義であるようなないような、そんな位置にある。

そのことが、私たちの性的官能を導きだすとすれば、
足指の意義ではなく、私たちの性的官能の持つ意味が、
少しずつ開かれていくのではないか。

茄子供養(2)

ものごとを理解するということは、それらを支配下(アンダー・コントロール)に置くことなのだろう。
それは物理的な支配とは限らない。
意識下の支配となる。

「××は○○だ。」という単純な構文。
××を○○だと理解することは、××を○○だと規定することであり、理解する側が○○だと規定することによって××を支配することである。
あるいは、支配することによって規定が可能になる。

しかしながら、理解される側には、支配されない(アンコントローラブル)部分が残る。
この支配されない部分というのは、じつに、理解する側・支配する側には見えない。

つまり、理解する・支配するということには、理解されない・支配されないということが含まれていくのである。


言葉というのは、理解するためにしか使えない。
理解されない・理解できない・支配されない・支配できないことは、
否定形・打ち消しでしか表現できない。
(ということで、否定形の発見は、レトリック上重要な発見だったわけだが)。
「××は○○ではない。」
では、××は何なのか。
「○○ではない」としか表現されないときに、××に対する理解・支配は物理的な局面に及びうる。

理解・支配の道具である言葉を積み重ねることで、理解されない・支配されないもの(こと)に手を触れることはできるだろうか。

私たちが「慰霊」とか「供養」と呼んでいる行為や心性の中に、
積み重ねた言葉の石垣の隙間から、理解されない・支配されないもの(こと)の何らかの形が、しみ出す清水や、草の芽生えのように、浮かんでくるのではないか。

犯罪と人権

犯罪者に「人権」があるのか。
という議論は、充分に成り立つのが、今の日本の状況なのかもしれない。

この議論を十全に成り立たせるためには、「犯罪」とは何か、
誰が、どういう基準で、「犯罪」を「規定する」のかという、「前提」が必要であろう。

しかしながら、「犯罪者にも人権がある」ということは、
逆照射すれば、「犯罪」の規定にも過ちがあり得るということであろう。

今の日本の状況の中で、犯罪者に「人権」があるのかという議論が成立するならば、
「犯罪の規定」がいつでもどこでも不変であり、言ってみれば「犯罪は犯罪だ」という暗黙裏の了解があるからなのかもしれない。

法治国家において、法律にそぐわないことが犯罪であり、
憲法の規定で法律は改変できることが保証されているならば、
犯罪は犯罪ではない可能性を含んでいるはずである。

それでもそれを「犯罪」として糾弾するならば、その糾弾は、近代法制度以前のものであるか、
あるいは近代を超克したものかのどちらかであるはずだが、
後者である可能性は、ほとんどまったくあり得ない。

「犯罪」を犯したのだから、「何をされても(しても)かまわない」というのは、
近代以前の、因習的な感情論に過ぎないであろう。

「因習的」ということについても、また議論を重ねてみたい。

to see is to be seen


見ることは、見られること。
しかしながら、私たちは、見られることなく見ることを、望もうとしている。
あるいは、見ている私は誰にも見られていないと、思い込もうとしている。

私(たち)が、見ていたことを表明するとき、私(たち)は見られていたことを受け入れなければならないが、
そのとき私(たち)は、見られることを前提とした、見られている私であることをつくろおうとする。

つくろった「私」が、私を見ている誰かにとっては真実のすべてであることを取りつくろうために、
見られている私は、ほんとうの私ではないと、明らかに、あるいは言外に、私(たち)は意識しながら、
見るという行為を、自分の行為として認識しようとする。

私は、透明な視線とか、透明な行為というものを、否定しようとしているのかもしれない。
具体的な行為や、具体的な行為を説明するという動機は、いつも、何らかの澱を漂わせて、
濁っている。

透明な視線というものを、今の私は、創造/想定/空想できないでいるし、
それは、(ひょっとしたら)私は生まれながらに持っていた性質なのかもしれない。

透明というのは、見えないということであるのに、
透明と表現するのは、見えていることの表明であり、
見えていることをと見えていないと表現するのは明らかに韜晦であり、
私の表現は妄想ではあっても、空想ではない、のかもしれない。

「私たち」

ネットで見た何かの言葉に、
「私たち」とは何か、という(警戒的な)言葉があった。
私が「私たち」と言うときは、それは「増殖した私」である。
あんな私や、こんな私、泣いている私、怒っている私、笑っている私、何も考えていない私、
そんな「増殖した私」であって、
しかし、でも、「私」が「人類」や「人間」を代表しているような気がしているのかもしれない。
でも、私が「人間」一般を知ることができるのは、「私」を触ってみることでしかできないのかもしれない。


Alban Berg - Concerto for Violin and Orchestra


私たちが何かを理解しようとするとき、私たちは何かの「補助線」を引く。
そのものを「わかる」ことと、「理解する」ことのあいだには、消え去った補助線以上に、
「無理解」がある。

カレンダー

01 2025/02 03
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28

フリーエリア

最新CM

[05/31 あそんでる人]

最新記事

(09/29)
(07/22)
(05/14)
(03/11)
(03/09)

最新TB

プロフィール

HN:
florva new noise maker
性別:
非公開

バーコード

ブログ内検索

最古記事

(03/31)
(03/31)
(04/01)
(04/02)
(04/03)

P R

カウンター