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web florva不定期日記

見えないものは見えない。見えているものも見えない。

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『蜘蛛の糸』

芥川龍之介『蜘蛛の糸』
1918年(大正7年)に雑誌「赤い鳥」に発表した子供向けの短編小説。

先日のニュースで、ラップで説教する僧侶の話題の中で、この『蜘蛛の糸』の劇にも出演とあった。
僧侶が『蜘蛛の糸』を演じることに違和感を覚えたのである。

芥川龍之介の『蜘蛛の糸』は犍陀多が主人公であるように描かれているし、児童文学としてそのように構想されたものであることに異論はないが、芥川が描こうとしたのははたしてそうした、巷間に流布しているような教訓譚であったか。
同時期に書かれた『枯野抄』(大正七年九月)で、意地が悪いほどに芭蕉の臨終の枕元に集まった門人たちの心理を描いた芥川が、たんに児童文学であるというだけで、そこまで教訓に徹したであろうか。
以前金子みすずの詩について私が論じたような、「消費」の構図がここにもあるのではないか。

犍陀多の構図は単純である。
我が身可愛さに他人を蹴落とそうとして発した一言が、彼を再び地獄に突き落としたのである。
だから自分だけでなく他人を思い遣る心が大切であるとは、容易にたどり着く結論である。小学生だって、いや幼稚園生だって思いつく結論である。

私がこの作品を初めて読んだのは、たぶん小学校低学年の時ではなかったか。
その時の印象は、今再び読み返してもまったく変わっていないように思う。
それは、御釈迦様はなんと無慈悲なものかというものである。
悪人正機説を持ちだすまでもなく、御釈迦様の慈悲は広大無辺なものであり、犍陀多のように我が身のことのみで頭をいっぱいにしている者にこそ、その慈悲は注がれるはずであることは、幼い私にも考えることのできたことだった。

御釈迦様は極楽の蓮池のふちに立って、この一部始終をじっと見ていらっしゃいましたが、やがて犍陀多が血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました。自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、犍陀多の無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。
 しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着致しません。


この部分にある「無慈悲」という語が、幼い私には御釈迦様の白くてのっぺりとした顔に貼り付いているように思えてならなかったし、今もこの作品を読んでそう思う。
芥川が描きたかったのは(「言いたかった」ではなくて)、この御釈迦様の「悲しそうな御顔」に貼り付いた「無慈悲」ではなかったか。
この「悲しそうな御顔」のもつ酷薄さを描きたかったのではなかった。
たぶん芥川は、それを描いて十分だったように私には思える。

が、この作品の余韻の割り切れなさは、そうした解釈では不十分であることも、私に問いかける。
無慈悲もまた仏の慈悲である。
そう私に問いかけてくる。

犍陀多はこれを見ると、驚いたのと恐しいのとで、しばらくはただ、莫迦のように大きな口を開いたまま、眼ばかり動かして居りました。
という、犍陀多の我が身のことばかりに気をとられている表情の無心さ。
そして御釈迦様はその様子を見て、「悲しそうな御顔」をして無慈悲をなすのである。
「悲しそうな御顔」は慈悲の表れであり、慈悲ゆえの無慈悲を御釈迦様はなすのである。
これを、凡夫である読者は割り切れなさとして読んで、他にどのような読み方があろう。

私たちもまた、無慈悲の道に堕ちていく者を「かわいそうに」という慈悲の思いでながめつつも、手をこまぬく他ない無慈悲の態度におちいらざるを得ないのである。
世間を騒がしている犯罪者に対して、被害者に同情心を持ちながら非難することは容易であるが、その反作用であるかのような、けっして表立って認めようとはしない犯罪者に対する、犯罪を犯してしまったことに対する同情心もまた心の奥底の片隅で、覚えているはずである。
その心を「血も涙もない」といったような言葉で、私たちはさらに心の奥底に追いやるのである。
そうして、「その玉のような白い花は、御釈迦様の御足のまわりに、ゆらゆら萼を動かして、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽ももう午に近くなったのでございましょう。」といった平穏さへと自分を弁護するのである。

私には、幼いときも今も、この話は割り切れない話としてしか読めない。
芥川もまた、そのように現実の中で生きていたはずだ。
『枯野抄』と『蜘蛛の糸』を結ぶ糸は、そのような芥川自身の誠実さに裏打ちされているのだと思う。
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11月23日

夜の帰り道を思い出している。
夏だろうか、冬だろうか。
頻繁なときは、週に一回その道を歩いて帰った。

Nobody Is Right

私は中島みゆきに何の興味も持たないが、その作品に現れた才能や人格には敬意を覚える。

先日深夜ラジオから流れてきたこの曲、「Nobody Is Right」には驚いた。
驚いたという言い方が当を得ているかどうか。

「中島みゆきは何を怒っているんだ!?」
というのが正直な感想だった。
歌詞も、ゴスペル調のアレンジも、率直な怒りの表明へと直結している。

気になってネットで歌詞を調べたのだが、この歌によって癒されたという感想が目に入った。
人が何によって癒されるかはそれぞれで、それによってその人その人を批評することは、真の意味でできないことだ。
昨日癒された歌に、今日は癒されないし、
昨日まで何でもなかった30年前の歌に、今日は涙が止まらないこともある。

Nobody Is Right
という直截な表明は、パラドクスになっている。
「正しい者は誰もいない」のならば、
「正しい者は誰もいない」と言っている「私」も正しくない。
ゆえに、「正しい者は誰もいない」というのは正しくない。

そうしたパラドクスの前で、私たちはどういう態度を取るのだろう。

ポール・サイモンは「Something So Right」の中で、自分が間違っていることの認識の難しさと同時に、自分が正しさの中にいることの居心地悪さを歌った。
自分が正しいと言うことは、不確かさや気恥ずかしさを、多かれ少なかれ伴うものであるはずだ。

自分が正しいと声高に言うものは、嘘つき・詐欺師のたぐいだというのが、私たちの古典的認識であるはずだ。
そうでなければ、よほど追い詰められている、正気を保つことが困難なほど追い詰められているのであろう。

「nobody」という語は「世界中の誰でもない」という意味である。
私の周囲のあいつやあいつやあいつや、という意味ではない。
「正しい者なんか世界中に誰もいない」という言が正しいと保証されるのは、正気が保てないほどに追い詰められている人間だけだ。
そして怒りが正当化されうるのも、またそうした人間だけだ。

中島みゆきがここまで身も蓋もなく、楽曲的な洗練も投げ捨てて、歌うからには、
「中島みゆきは何を怒っているんだ!?」
なのである。
世間的な、つまり個人レベルを離陸した怒りといったものなら、パラドクスや怒りの正当性は保証され得ない。
彼女は、個人的に本当に心底徹底的に、怒っているはずでなければならない。
そしてそれが、私にはわからないのだ。
歌を聴くだけでは、歌詞を読むだけでは、私には何もわからない。
怒りというのは当事者同士でなければわからないものだから、それでいいのだろう。

でも、人混みの中で怒り狂っている人を見ると、気になるというのが人情というものだろう。
Nobody Is Right 中島みゆき 歌詞情報 - goo 音楽

シャーマニズム

NHK教育テレビ『地球ドラマチック』2007年10月24日(水)放映『発見!シベリアのミイラ』を見た。

ヤクート族の古い墓を、フランス人研究家が発掘するという番組だったが、
あれは、「墓を暴く」といった印象で私は見始めていた。
300年前の墓だというが、地元のヤクート人たちも墓を暴くことに恐怖を覚えていた。
その感情が自然に理解できる私というのは、やはりモンゴロイドの一族であった。

墓には死者がおり、死者は私たち生者とは違うあり方で存在している。
死体であっても、それは何らかの霊的存在であり、霊的存在であることによって、生者と変わることのない存在である。
さらに死体がなくとも、死者は霊的存在であるいじょう、そこに「存在している」。
日本人の多くが、その信仰の体系が(無信仰も含めて)異なっていても、そのことを「信じている」。

信じるとは、信仰とも、知識とも、認識ともちがう。それらを薄く、しかし確固と覆って破ることのできない、感覚的、感情的、そして肉体的な体系である。
それは文字どおり「開かれていない」という意味で、「未開」な体系である。
しかし、「開かれていない」ことが、単純で、蒙昧で、愚かであることを意味しはしない。
むしろ複雑で、示唆に富んでいさえする。
それは単純な「公式」へと抽象されていないだけで、「公式」が全ての個別にあてはまり(つまり開かれて)、「公式」を識ることで全てが解き明かされるという理解のもとでは取りこぼされる多くのものに、直な目を向けるという姿勢をともなわせる。

この世界は単純な「公式」によって開かれているのではなく、個別性の複雑な絡み合いによって閉ざされているのである。
そしてその個別性の複雑な絡み合いのすべて(実際には不可能だが)をたどることで、私たちは世界に開かれ、世界は私たちに開かれているのである。

私たちは絡み合う個別であり、個々が絡み合っていることを知っている。
そうした絡み合いの結節点を見ることのできる者が、シャーマンと呼ばれる者たちである。

番組に登場した300年前のミイラは、白人との接触によって結核に冒されて死んだシャーマンの女性であることが、明らかにされた。
300年前の死者が、その死によって、いまだにヤクートの人々に恐怖を与えていたのである。
その恐怖を、無知であると言うことはできる。
無知ゆえの恐怖を、私たちは嗤い、憐れみ、導くことはできる。
しかしそれは「盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」(マタイによる福音書15章14節)
私たちは、「公式」によって取りこぼされてしまうものがあることを知らない世界に生きているのだから。

番組を見ながら、平たい太鼓を鳴らしながら低く歌い、全てのものの結節点をたどり続けるシャーマンの姿が、私の頭の中にあった。
思えば私の詩も、文学ではなく、自己表明でもなく、言葉がたどるものをたどろうとしているということにおいて、またシャーマン的なものであった。
そう思った次の日、私はまた新しい詩の着想を得た。

芥川龍之介『トロッコ』とニートさんたち

今日は父の80歳の誕生日。
それとはまったく関係ないのだが、芥川龍之介の『トロッコ』を久しぶりに読む機会があった。
主人公の良平の幼いが根源的な不安感というものに、以前は気が取られていたが、
今回気になったのが、物語の、地と図と言い方をすれば、地にあたる部分、若い土工たちの仕事ぶりである。
幼い(8歳)良平が「おじさん。押してやろうか」と言えば手伝ってもらい、峠を越えては茶店で休憩する。
仕事ぶりはまじめで、懸命にトロッコを押している。
何とものどかで、東南アジア的である。

仕事とは私にとって何か。という命題がある。

内田樹のブログのコメントに
> みんな自分の幸せを求めて生きる。
> そして誰のせいにもしなければみんな幸せになると思うんです。
というコメントが(自称)ニートからあった。

そこにある「幸せ」とは何なんだろう。
「自分の幸せを求める」そして「誰のせいにもしない」。
そこには「誰」からも切り離された個人だけがある。
本人も
> 私はもっとみんな個人主義でもいいかなって思うところはあります。
と断ってはいるが、
ここには、漱石以外だれも気づかなかった誤謬がある。
個人主義とは他者が個人であることを大事にする立場である。
「誰のせいにもしない」ということは「誰のおかげでもない」ということと同義であることに気づいていないようだ。
そしてそれは、けっして「個人主義」などではない。
「せい」とか「おかげ」というと、日本的な皮膚にまとわりつく感じがあるが、
個人主義とは他人の立場を大事にする立場であれば、他者を切り捨てて自分一人で存在すると考えることは「個人主義」ではない。

「若い土工」たちはなぜ仕事をしていたのだろう。
仕事が金銭と全的に結びついているのならば、茶店に何度も立ち寄って茶を飲むということは、悪でなければならない。
悪を行っている以上「土工」たちには後ろめたさや、あるいは何ならかの反抗的意識が見られるはずだが、そういうものはない。
現代は、とくにバブルの破綻以降は、仕事と金銭との全的結びつきが強力になされてきた。
とくに労働者を丸抱えするのをやめて、フリーター労働や派遣労働に依存を強めてきたことによって、仕事=金銭という意識がすべてを覆い隠してしまっている。

「土工」たちはなぜ仕事をしているのだろう。
文学的な読解による答えはない。いやどのように考えても、正解はないのが文学というもの。
しかしこのように考えることは許してもらえる気がする。
つまり、仕事とは世界(日本的に世間といっても良い)と自分を結びつけるものだと。

いやそれ以前に、金銭そのものが、世界と自分を結びつけるものなのである。
交換を前提にしない金銭は、金銭とは言えない。
仕事=金銭と定義づけても、金銭=交換であるからには、他者の存在なしにはこの公式は成り立たない。
そこに、じつに見事に「ニート」が成立するのである。
そして(自称)ニートさんがいう個人主義が誤謬に満ちていながらも、何らの矛盾もなく成立するのである。

そしてそこに求められる「幸せ」とは、他者とも金銭とも切り離された/接触しないこと自体が、「幸せ」であるとしか、考えることができない。
つまりニートとは、何らかの「幸せ」を求めるために/ことによって、ニートになるのではなく、ニートになることが「幸せ」なのである。

いや、べつにニートさんたちに聞いたわけではないが、論考を進めていくとこうなる。

良平は、大人になった今も、あの暗い帰り道を思い出すことがあると、筆者は述べる。
暗い帰り道とは、土工たちから切り離された道であるとすれば、世間とのつながりから切り離された心細さであると、象徴的に読めないだろうか。
前近代的なものから切り離された近代的な人間のあり方が、校正の朱筆を握る良平を不安にさせ、妻子を養う良平を心細くさせるのである。
そしてその心細さの向こうに、暗く細い道の向こうに、土工たちののどやかな世界が、薄れた色彩の中に存在しているのである。

漱石も鴎外も、前近代を断ち切り近代に生きる意味を描き続けた。
龍之介も、その系譜に位置づけられる。
が、龍之介にとっての前近代は、漱石や鴎外にとってのそれより、三十年ばかり遠すぎた。
龍之介の抱えた「漠然とした不安」とは、じつはそのあたりに根ざしていたのかもしれない。

スティン

NHKテレビ「プロフェッショナル 仕事の流儀「地の果てにこそ,真実はある〜生物学者・長沼毅〜」」を見ていて、2003年の夏に岡崎で会ったデンマーク人のスティンとの会話を思い出した。

植物を研究しているという彼に、私は、文字の書き方について思いつくままにしゃべった。
右から、左から、横へ、下へ、それらは筆記具の特性に基づいているのではないかと。

そして今私は、自分が詩を書いている理由を、思い出した。

言葉とは何であるかを知るために、私は詩を書いているのだった。
書き表したいこと、伝えたいことがあって書いているのではない。
言葉の性質や構造、特性といったものではなく、
単純に言葉とは何か、という謎のために、私は詩を書いているのだった。

旅に関する詩でも、植物に関する詩でも、死者と交わる詩でも、何でもいい。
それらは題材であって、主題ではない。
言葉とは何か、それはけっして言語解析ではたどり着けない。
言葉で言葉を説明するという、循環に陥るだけだ。

私は言葉とは何かを知るために詩を書き、私の詩は言葉とは何であるかをいつまでも指し示さないだろう。
そのために詩を書いているのだ。
少なくとも、三十年前から。

Chicago/Earth,Wind&Fire Live At The Greek Theatre

何の気なしに、シカゴとアース・ウィンド・アンド・ファイアーの2004年のグリークシアターでのライブのDVDを買った。
どちらも私の70年代のアイドルである。

その後しばらくして、イエスを「フラジャイル」から「リレイヤー」までつづけて聞いた。
その時、なんて白人はあれこれしたがるのかと、思った。
「白人」とひとくくりにするのは差別的な発想なのだが。
正確に言えば、ヨーロッパ発祥の音楽に基盤をおいた音楽ということになろうか。

アフリカ系アメリカ人の音楽に比して、ヨーロッパ発祥の音楽は、展開を求める。
今の私には、求めすぎるのだが。
繰り返しを嫌うことが、ヨーロッパ音楽の基本である。
もちろんシャコンヌのような形式もあるが、それでも変化・展開を際だたせるための反復である。

シカゴの音楽は展開を求め、E.W.&F.の音楽はここにとどまりつづける。
どちらが良くて、どちらが嫌いということではない。
今の私は、後者に馴染むというのである。

アインシュタインが、アフリカ系のエートスに基づいた人であったらどうだったろう。
という命題を思いついた。
アインシュタインは三次元座標に時間座標を加えることで、特殊相対性理論を考えた。
(と私は理解している)
時間軸に沿って展開・変化するのではなく、時間軸に沿いながらここにとどまるという発想で、
どのようなモデルができるのだろうか。

いや、アインシュタインの発想・モデルが、そうした単純なものではないのはわかる気がする。
それは「アインシュタインの」ではなく、やはりヨーロッパ的発想のことを、私は言っているのかもしれない。
ダーウィンの進化論も、やはりそうした展開・変化に軸をおいたヨーロッパ的発想であろう。

アフリカ系アメリカ人の音楽、とくにR&B系の音楽は、ここ以外のどこにも行けない、存在できないという彼らの生活・歴史の中で形づくられたものであるにちがいない。
そうした発想で、この世界はどのように描きうるのだろうか。

そして私・日本人は、どのような世界を持ち、どのように世界を描くことができるのだろうか。

切符を買う


切符を買った言い訳に、電車に乗る

朝食を抜いた言い訳に、腹が減る

家を出た言い訳に、家に帰る

酒を飲んだ言い訳に酒に酔い
遅くまで起きている言い訳に眠くなる
眠ってしまった言い訳に目を覚まし
起きてしまった言い訳に切符を買う

抱いた言い訳に好きになり
子が生まれた言い訳に子を愛し
そして
生まれた言い訳に、死ぬ
生とはかくの如きと、言わぬ言い訳に
また切符を買う

さま

話題としては少々古いが、職場の近くに、
『患者さま 駐車場』
とでかでかと看板が出ているのに気づいたので、考えたことをちょっとだけ。

さま 2
接尾)
[一]
(1) (ア)人を表す名詞または身分・居所などに付いて、尊敬の意を表す。
「中村―」「お母―」「殿―」「仏―」「公方(くぼう)―」
(大辞林)

さん
(接尾)
〔「さま(様)」の転〕
(1)人名・職名などに付けて敬意を表す。また動物名などに付けて、親愛の意を表すこともある。
「山本―」「お父―」「課長―」「お手伝い―」「お猿―」
(大辞林)

ちゃん
(接尾)
〔「さん」の転〕人名または人を表す名詞に付いて、親しみをこめて人を呼ぶ時などに用いる。
「太郎―」「お花―」「おばあ―」


敬意を比較すると、
「さま」;尊敬の意を表す。
「さん」;敬意を表す。親愛の意を表すこともある。
「ちゃん」;親しみをこめて人を呼ぶ時など。
尊敬の意と、敬意を「大辞林」は区別しているようなので、
敬意は「さま」>「さん」>「ちゃん」となろう。

実際の用法でも、例えば「山田さま」「山田さん」「山田ちゃん」と考えればそうであることがわかる。
あるいは、「おかあさま」「おかあさん」「おかあちゃん」。

これらの接尾語を発する者が、接尾語を付ける対象に対してどのような意識を持っているかが、その発語を聞く者にわかるというものである。

では、次のような用法はどうか。
「(お)殿さま」「殿さん」「殿ちゃん」。
「お医者さま」「お医者さん」「お医者ちゃん」。
「(お)犬さま」「犬さん」「犬(わん)ちゃん」。

本来社会的に当てはまる位置にあるものに適合しない用法が、上位の接尾語を使っても、揶揄や軽侮の意味合いを持ってくることがわかる。

『患者さま』という用法が、違和感(ひとによっては嫌悪感)を抱かせるのは、そんなところにあるのかもしれない。
せいぜい「患者さん」だろう。というのが、正常な感情だろう。
「殿さま」「お医者さん」「わんちゃん」というのが、それぞれ「殿」「医者」「犬」に向かって言うときの正常な用法だというのと同じである。

いくら敬意を持っている/持っていないとは言っても、社会的な位置に適合しない使い方をすれば、それは「世間知らず」と呼ばれるのである。
「さま」「さん」「ちゃん」そのものだけが、敬意を持っているのではないし、使い手の敬意が決定するものではないのである。


用法を比較すると、
「さま」は人を表す名詞または身分・居所に付く。
「さん」は人名・職名などに付けて敬意を表す。また動物名などに付けて、親愛の意を表すこともある。
「ちゃん」は人名または人を表す名詞に付く。

面白く思うのは、「お猿さん」とは言うが「お犬さん」や「お猫さん」とは言わないことである。
猿の方が人間に近いからだろうか。
「象さん」や「キリンさん」は?
「パンダちゃん」とは言うが、「パンダさん」とは言わない。
やはり人間社会の中で、それぞれの位置づけがあるのである。

だいたい動物に「さん」や「ちゃん」を付けるのは、いわゆる「幼児語」の範疇であろう。
幼児にとって「ちゃん」と呼ばれるのが水準であるとすれば、それより上かどうかということが、これらの用法から理解されるだろう。
そして「さま」を使わないことも。

さらに先ほど、「揶揄や軽侮の意味合いを持ってくる」と述べたが、それは接尾語の対象にではなく、そういう使い方をしている発語者に対する揶揄や軽侮となっている。
「お犬さま」がその例であろう。

まあ、「俺が患者になってやったから、おまえらが飯を食っていけるんだ。せいぜい尊敬してくれ」と大見得を切ったら、お医者さまは何と答えるだろうか。
「ヘイ、おありがとうございます。あなた様のおかげさまでございます」なんて答える医者の所へは、私だったら信頼して通うことはできない。
「不摂生だからこうなったんですよ! これからは気をつけてください」くらいのことは言ってくれないとね。

2000年前後は

「真夏のCDTVスペシャル‘07〜世界陸上も大応援!最強なつソング&上半期大ヒット濃縮300曲決定版!」 という番組を見ている。

99年から02年くらいまでの歌が、私の理解外にある。
それが04年くらいから理解の内にある。
音楽が回帰したというのだろうか。
それとも後退なのだろうか。
あるいは世相というものと相関関係があるのだろうか。

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