ひょっとして自分は梅雨の時期が好きなのではないか。
何の変哲もない広島の西の山が霧に包まれている姿が、昨年の暮れに訪れた冬の雨の嵐山の風情に似ていると思ったりして、あまりにも過多な水蒸気が白く野山を包むこの時期こそが、私の好きな季節のひとつであるように思える。
こんな風に思ったのは、今年が初めてだ。
灌仏の比、祭の比、若葉の、梢涼しげに茂りゆくほどこそ、世のあはれも、人の恋しさもまされと人の仰せられしこそ、げにさるものなれ。五月、菖蒲ふく比、早苗とる比、水鶏の叩くなど、心ぼそからぬかは。
と兼好が記したのも、そうした空気の中でとらえると俄然合点がゆく。
「若葉の、梢涼しげに茂りゆく」という鮮やかで清々しい風景が、「世のあはれも、人の恋しさもまさ」るという内面を触発したり、「水鶏の叩くなど、心ぼそからぬかは」という不安定感にゆきつくという一見した矛盾が、ごく自然のことのように思える。
それは、いったい何なんだろうか。よくわからない。
そういう風景の中をゆくとき、すべての目に入るものが、急激な早さでいとおしく思える。
コンビニの前で汗をぬぐう制服の中学生。子供を連れた若い主婦。二つ先の横断歩道を、信号を無視してわたる小学生。
それらが、いとおしい姿で私の前を横切っていく。
しかしそのいとおしい姿を私はどのような言葉でもっても表すことができない。
小林秀雄が何万言を費やして私に伝えようとしたことは、そのことではないか。
そして表現不可能であることを表すことは、その不可能性に挑むことでしかできない。
小林秀雄のすべての表現は、ものそのもを表すためにあった。
その裏には、中也ならたったひとつの擬音語で表せたものを、表すという小林秀雄の靱い意志がある。
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