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web florva不定期日記

見えないものは見えない。見えているものも見えない。

偉大な芸術は偉大なのか


テーゼだけで、すべて語った。
すべては、偉大な芸術を偉大だと言うがために、存在する言説であるに過ぎない。
それでも心揺るがされる自分、

美味くても不味くても、メシは食っていかねばならない。
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order caos Boulez


植物たちを見ていると、(特に亜熱帯的日本では?)全体的な様相として、混沌に見える。
一個体ずつをみると、それは秩序だっている。
ある個体と他の個体とにおいても、ある固定的な関連性に基づいて、それは秩序(=固定的法則性)を成立させている(ように見える)。

世界は=宇宙は、混沌にも秩序にも見えるくらいには、多くの相関関係(関係しないことも含む)で成り立っている。

秩序だっているとすれば、その秩序はあまりに複雑に見え、
混沌とすれば、あまりに関連性がありすぎる。

この世界に、どれだけの(個体としての)植物があるのだろうか。
そしてそれは、あまりにも敏感に気象に身をゆだねているし、
隣の植物とも関係しすぎている。

その関係性の総体が、混沌として見えるのは、人間の怠惰であろうか。

ブレーズの音楽が、混沌と聞こえたり、秩序だって聞こえたりするのは、
その植物たちの、(極めて雑な)アナロジーとして聞こえたりする。

コーヒーの蓋

退職してからずっと、松屋式でコーヒーを淹れている。
松屋式自体は以前から知っていて、アウトドアでもそれらしい淹れ方はしていたりしたが、マキネッタが主流だった。
ペーパードリップがいいのは、後片付けが簡単なこと。

松屋式をきちんとやってみると、お湯で薄めるのでどうかなと最初は思ったが、それまでのペーパードリップとはちがう、輪郭のはっきりした味。

でも最近、なんだか、??な感じ。
本当にすっきりした味なの? これでいいの? と思い出した。

Youtubeでもう一度勉強し直し。
なるほど、蒸らしのときのお湯の指し方がちがう。
・・・・でも、なんだか・・・と。

で、蓋か・・・? と思い当たった。
これまでは、以前100均で買ったシリコン製の蓋を使っていたのだが、ひょっとして蓋?
と思い当たって検索してみると、どうもドーム型の方がいいみたい。

タイムズに行って適当なのを探したりして、ダイソーで(子供用?)小さな樹脂製の茶碗を見つけた。
直径が、ドリッパーより1ミリ大きいくらい。
それで淹れてみた。
寿屋珈琲店のガテマラ。
(これにも曰くがあって、
ブレンドじゃなくて、単体のコーヒーを試そうと寿屋幟町店でモカシダモとガテマラを買ったのが約2週間前。
それが切れたので、一昨日、今度はちがうのをと、エチオピアとマンダリンをたのんだら、エチオピアとガテマラを碾いてくれた。
その、ガテマラ。)

これまでは、けっこう泡が立ったのが、それほどでもなく、
酸味と苦みのまわりを甘みが纏った、いい味になっていた。

あ~! 相変わらず面倒くさい文章だが、
蓋を茶碗にしただけで、味が激変したというお話。

無くした

EARINをなくすことはないだろうと言っていたのに、
なくしてしまった。
降車停留所の手前で寝落ちして、何をあわてたのか、音が聞こえなくなったのを不思議とも思わず、下りる寸前にシートから立とうとしたときに、気づいた。
また新しく買った。

ジェンダー/セクシュアリティ

自分以外の生存を、あるカテゴリーに押し込めようとすることは、
自分自身をまた、あるカテゴリーに押し込めることである。

まるで居心地の悪さからくる窮屈さが、自分のアイデンティティーであると思い込んでいるように。

自分のジェンダー/セクシュアリティから、自由であっていいんだよ。
あるときは「男」であったり、あるときは「女」であったり。
ちんちんがあるから「男」であらねばならないことはないし。
「男」であったり「女」であったりするのが、自分なんだよ。

「自分」ですら、「自分」であったりなかったりする。
「本当の自分」は、どこにもない。
「自由」って、「自分」からも自由であること。
ということは、「他人」から自分を規定されないこと。
私たちは、ついふらふらと「他人の規定」を自己規定にしてしまう。
そうして、私たちの歴史が形作られてきた。

大人
子供


人種
「規定」を外れたところで、私たちの存在は保障されているはずだ。

一周忌

猫はまた 小さき壺の 中に居り

主は

主は死なねばならない
キリスト、イエスによって

という言葉が聞こえた。
帰宅のバスの中、ほんの1・2秒のうたた寝の中で。
ペットボトルをつぶす音がして、私は目がさめた。

OSアップデート

"7"から"8"へというわけでもなく、"XP"から"7"へというわけでもなく、
"Vista"から"7"へという、何で今頃感のアップデート。

じつは3,4年前に一度やったんです。
でもいきなり"Professional"へのアップデートで、わけもわからずクリックしたので、
"新規インストール"やらかして、すべて真っさらになったのです。
やれやれ。
リカバリーして、”Vista”にもどして、それきりになっていたのです。

でもこの前、itunesをアップデートすると、おかしな具合になってしまって、
それ以前から、noatiklがウインドウが戻らなくなったり、
adobe lightroom体験版がインストールできなかったりで、
もう潮時だと覚悟して、再挑戦したというわけです。

今回は”Home edition”を"上書きインストール"、しっかり確認しました。
でも、"何か"が引っかかって、インストールが続かないんです。

起動時にランタイムエラーが出ていたので、
それで、ネットでエラーの対処を調べると、itunesの何かが引っかかっている。
itunesがきっかけでアップデートを思い立ったのに、
itunesのせいでアップデートができない。
itunesと関係プログラムをアンインストールして、何とか正常化した。
ならそれでいいじゃないか!
いやいや、そうじゃなくて。その他のためにも、続けましょう。

18時前から始めて、環境設定の引き継ぎやら何やらで、4時(AM)までかかりました。
まあPCがひとりでやってたんですけどね。

その後たまりにたまったアップデート更新とか、しこしことひとりでやってもらいました。

職場のPCが"7"なので、違和感は全然なし。
あとちょこちょこっと起動しないプログラムを何とかしないといけない。

何てことない記事ですが、最近書き込んでなかったので、広告消しのために書きました
あ、いや、
近況報告です。

触る

山本参議院議員に端を発した天皇に関する議論は、
福島原発事故に端を発した原発議論とトートロジーなのかもしれない。

原発をめぐる議論は、賛成論と反対論の周りをぐるぐるするばかりで、
原発事故をどう収束させるかという実効的議論は、局地的にはなされているのだろうが、
政局的議論や、特にマスコミ上の議論としては、国家的話題とはなっていないと思える。

たしかに原発事故を収束させるのは、専門家たちの実際的な行為しかないのだが、
原発だけでなく放射能汚染も含めて、現実は収束へ向かってさえいない。
そうした現実の中で、原発の賛否を議論することは、
原発事故という現実を、我々の現実から遠ざけているに他ならないだろう。

天皇に関する議論、特に昨夜のラジオでの議論は、憲法解釈上の議論で、天皇そのものに手を伸ばすことはなかった。

福島の現実に触れることのない原発議論。天皇に手を伸ばすことのない天皇論。
天皇が皇后とともに福島に出かけて被災者と言葉を交わすことは、二人のヒューマニティの溢れんばかりの発現であるだけではなく、無意識下の交感であるかのようにも、また思える。

あるのにないかのようにされている生存。
我々がどのような言説を用いても、それが単なる解説にしか過ぎない、つまり、手を伸ばして触れようともしない存在。
私たち人間が何かに触れるということは、つねにそういうことだったのかもしれない。

新約聖書にも何人か登場してくる。
行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施し、わたしに従いなさいと言われて、悲しげな顔で立ち去るたくさんの財産を持っていた青年(マタイ19:22)。
良きサマリア人の話の後、行って同じようにしなさいと言われた律法の専門家(ルカ10:25)はそれからどうしたのだろうか。

たくさんの財産を持っていた青年の行動は、私たちの本能なのだろうか。

「宗教」ということさらな舞台の上では、私たちは自分の財産をすべてなげうつことができるだろう。
今ここで私は、私のすべての財産をなげうつことができるだろうか。
またすべての財産をなげうつことが、すべての財産をなげうつことになると考えているのだろうか。



だれも触ろうとはしない。
ただそれを解釈しているだけ。
そのことに気づかない。

セクシー


なぜ足に指があるのだろう。
手指との類似性から、私はそう考えてしまう。
手指と比して、あまりに無能であり、無能ゆえに無防備な足指。

たとえば性器は、私たちの「文化」や「文明」の中では
「わずかに見えるもの」として阻害的な扱いを受けてきた。

「文化」や「文明」の中で無能であり無防備であるものこそが、
私たちの「セクシャリズム」を担ってきたのだとすると、
足指のセクシャリティはそうそう看過できないものである。

私たちの足は歩くことに特化されてきた。
その中で足指は、解剖学的、運動生理学的見地ではなく、
実地の肉体感覚からして、
有意義であるようなないような、そんな位置にある。

そのことが、私たちの性的官能を導きだすとすれば、
足指の意義ではなく、私たちの性的官能の持つ意味が、
少しずつ開かれていくのではないか。

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