山本参議院議員に端を発した天皇に関する議論は、
福島原発事故に端を発した原発議論とトートロジーなのかもしれない。
原発をめぐる議論は、賛成論と反対論の周りをぐるぐるするばかりで、
原発事故をどう収束させるかという実効的議論は、局地的にはなされているのだろうが、
政局的議論や、特にマスコミ上の議論としては、国家的話題とはなっていないと思える。
たしかに原発事故を収束させるのは、専門家たちの実際的な行為しかないのだが、
原発だけでなく放射能汚染も含めて、現実は収束へ向かってさえいない。
そうした現実の中で、原発の賛否を議論することは、
原発事故という現実を、我々の現実から遠ざけているに他ならないだろう。
天皇に関する議論、特に昨夜のラジオでの議論は、憲法解釈上の議論で、天皇そのものに手を伸ばすことはなかった。
福島の現実に触れることのない原発議論。天皇に手を伸ばすことのない天皇論。
天皇が皇后とともに福島に出かけて被災者と言葉を交わすことは、二人のヒューマニティの溢れんばかりの発現であるだけではなく、無意識下の交感であるかのようにも、また思える。
あるのにないかのようにされている生存。
我々がどのような言説を用いても、それが単なる解説にしか過ぎない、つまり、手を伸ばして触れようともしない存在。
私たち人間が何かに触れるということは、つねにそういうことだったのかもしれない。
新約聖書にも何人か登場してくる。
行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施し、わたしに従いなさいと言われて、悲しげな顔で立ち去るたくさんの財産を持っていた青年(マタイ19:22)。
良きサマリア人の話の後、行って同じようにしなさいと言われた律法の専門家(ルカ10:25)はそれからどうしたのだろうか。
たくさんの財産を持っていた青年の行動は、私たちの本能なのだろうか。
「宗教」ということさらな舞台の上では、私たちは自分の財産をすべてなげうつことができるだろう。
今ここで私は、私のすべての財産をなげうつことができるだろうか。
またすべての財産をなげうつことが、すべての財産をなげうつことになると考えているのだろうか。
だれも触ろうとはしない。
ただそれを解釈しているだけ。
そのことに気づかない。